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質問109: 頭脳と心の関係について

facim q&a

頭脳と心の関係性についてお聞きしたいのですが、たとえば、私の頭脳が受信装置で、私の心が無限の量の電波信号を発信しているようなものだと言えるでしょうか? 

 

そして、私が〈赦し〉を行えば行うほど、私が実際に受信できる信号の質がより高くなっていって、階段の最上段からの電波信号を受信できるまでになり、私が〈赦し〉を行わないなら、私の受信装置は、分離の信号だけしか受け取ることができない、といったものなのだと考えてもいいでしょうか?

 

 

回答

あなたは、その喩えにおいて、自分自身を肉体や頭脳と同一視するという、よくある混乱に陥っています。けれども『奇跡講座』の目的は、私たちが自分は肉体ではなく心であるという認識に至るのを助けることにあります。自分が肉体であるという自己認識は、私たちの心が、自我を選択したことによって、心が忘れ去られた結果です。あなたが混乱に陥っていると述べたのは、心のことを「信号を送るもの」として、また、頭脳のことを「信号を受け取るもの」として語っているからです。そしてさらに、あたかも、〈赦し〉が起こる場所は頭脳であり、あなた自身が頭脳であるかのように、「あなた自身が受け取る信号の質はあなたが赦すか否かに影響される」と言っているからです。

 

頭脳とは、私たちを「心を忘れた状態」にしておくための自我によるごまかし戦略の一部にすぎません。一切は心の中で経験されるのです。たとえば、「私たちは肉体であり、肉体の感覚を通してあらゆるものごとを、頭脳で経験する存在だ」という魅惑的な幻想も、心の中で経験されているのです。イエスは、次のように述べて、私たちの混乱した状態を優しくからかっています。

 

その理由は、見るということが何を意味するかについてのあなたの考えが、肉体や肉眼や頭脳に結びついているからである。だからあなたは小さなガラスのかけらを目の前に置くことで、自分に見えるものを変えられると信じている。これは自分が肉体であり、肉体の目は見ることができるという確信から生じる数多くの魔術的な信念の一つである。あなたはまた、肉体の頭脳が考えることができるとも信じている。もしあなたが想念というものの本質を理解していれば、このような狂った概念は笑い飛ばせるはずである。それはまるで、自分がもっているマッチで太陽に光をともし、あれだけの熱を生じさせることができると思うようなものである。あるいはまた、自分で手放すまでは、世界をしっかりと手の内に握っていられると思うようなものである。しかし、肉体の目が見たり頭脳が考えたりできると信じる愚かさも、これらの喩えと同じくらい愚かなことである。(W-pI.92.1:3-5; 2:1-4)

 

頭脳ではなく、心が受信装置なのです。イエスが『奇跡講座』の末尾で説明しているように、「意識[分裂した心] は受け取るための機構であり、上もしくは下から、すなわち、聖霊もしくは自我から、メッセージを受け取っている」(C-1.7:3)のです。

 

イエスは、「テキスト」において、肉体はコミュニケーションの媒体であると述べています。というのも、肉体は、発信するようにとあなた(=心)から与えられたものを、あなた(=心)に対して発信するだけだからです。なぜなら、心が送り手でもあり受け手でもあるからです。

 

なぜ、肉体があなたにとって何らかの意味をもつのだろうか。それを構成しているものが貴重なものでないことは確かである。そして、それと同じくらい確かなことは、肉体は感情をもたないということである。それはあなたが望む感情をあなたに伝える。他のすべてのコミュニケーションの媒体と同じように、肉体は与えられるメッセージを受け取ったり、送ったりする。肉体はそれらのメッセージに対して何の感情ももたない。メッセージに込められる感情のすべては、その送り手と受け手によって与えられる。自我と聖霊はどちらもこれを認識しており、ここにおいては送り手と受け手が同一だということも認識している。聖霊は喜びをもってこれをあなたに告げる。自我はあなたに気づかせたくないので、それを隠してしまう。メッセージは自分自身に送られることになると理解したなら、誰が憎しみや攻撃のメッセージを送りたいと思うだろう。誰が自分自身を責め、有罪とし、罪の宣告をしたいだろうか。 (T-19.IV.B.i.14)

 

この少しあとの段落で、さらに次のように述べています。

 

なぜなら、聖霊もまたコミュニケーションの媒体であり、父からメッセージを受け取りそれを神の子に差し出しているからである。自我と同じように、聖霊は送り手であると同時に受け手でもある。なぜなら、聖霊を通して送り出されるものは、それ自体を探しながら進んでいき、探しているものを見つけて、聖霊のところに戻ってくるからである。それと同じように、自我も自分が探している死を見つけ出し、それをあなたのところにもち帰る。
(T-19.IV.B.i.17:3-6)

 

こうした様々な所見を通して一貫していることは、イエスは、常に心の諸側面について語っているということです。明らかに、肉体は、それらのいずれにおいても何の積極的な役割も果たしていません。

 

あなたの比喩を使うなら、心を、「ラジオの周波数を合わせる人」に喩え、肉体・頭脳を、「ラジオ」に喩えることができます。その人は、自我の波長か、聖霊の波長か、どちらに同調するかを選ぶことができます。そして、どちらの波長を選ぶかによって、彼に聞こえてくるものが不調和で憎悪に満ちたものであるか、優しく親切なものであるかが決まります。しかし、ラジオ自体は、何も経験しませんし、どちらの波長に同調するかについて選択することもありません。

 

けれども、この比喩が破綻するのは、「どちらの波長の場合でも、聞こえてくるものの形態は同じであることもある」という点です。たとえば、同じ交響曲や同じニュースが、自我と聖霊の両方の波長に乗ってラジオから流れてくるかもしれませんが、それを聞く人が、もし自我の波長に同調していたならそれを不穏なもの、動揺させるものとして聞くことになりますし、聖霊の波長に同調していたならそれを希望と愛に満ちたものとして聞くことになります。そういう意味では、自我と聖霊は、むしろ、同じ放送が知覚される際に用いられる二者択一のフィルターのようなものだと言えます。

 

ところで、この比喩では、あなたが思っておられるように、ラジオが自我の信号だけしか受信できなくなるということは、決してありません。その心/人は、どの瞬間にでも、聖霊の放送局へとチャンネルを切り替えることを選択できるからです。そして、これはそのすぐ前の瞬間に、どの放送を聞いていたかには関係ありません。また、それ以前に、別の放送をどのくらい長い間、聞いていたかということも、問題になりません。

 

彼はチャンネルを切り替えればいいだけなのです。けれども、もし彼が自我の波長に同調することに慣れきっているとしたら、長い間に、彼は聖霊の波長を選ぶこともできるということを忘れてしまうこともあります。そして、自分には選択肢がないかのように、つまりそのラジオは、一つの波長だけしか受信できないかのように、行動することでしょう。けれども彼が覚えておくべきことは、どの瞬間にでも、彼がする必要のあることは、ただ自我の波長から聖霊の波長へと切り替えることだけであり、そうすれば彼の知覚も経験も変化するということです。

 

 
 

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