質問11: 分離と個人のアイデンティティーについて
〈実相世界〉においては、まだ分離は目に見えるけれども、個別の利害は見えなくなっている、と聞きました。それは本当ですか? それは実際にはどういう意味なのでしょうか? 分離と罪悪感はどちらが先に起こったものなのでしょう?(私は分離だろうと想像しています。)分離を白紙に戻さずに、罪悪感だけ取り消すということはできるのでしょうか? それとも、それらはすべて一つに結びついているのでしょうか?
私は、罪悪感は喜んで取り除きたいと思いますし、兄弟たちの利害を自分自身のものと捉えるということも、葛藤や競争といったひどく不快な感覚を終わらせてくれるのですから、良さそうなことに思えます。けれども、個人としての自分を失うというのは、私が喜んで支払いたいと思う代価のようには思えません。それよりも、私は、罪悪感も、葛藤も、競争意識ももたず、怯えてもいない、幸せな、個人でありたいと思います。これは可能なことでしょうか?
回答
まず初めに、罪悪感よりも分離が先に起こった、というあなたの推測は当たっています。罪悪感というのは単に罪の心理的な体験にすぎないのですから、罪深くあることの結果として生じる感情です。
『奇跡講座』の受講生たちのほとんどが、あなたが書いておられるのと同じ袋小路で行き詰まります。私たちが、特定の個人としての自分の存在にいかに強い一体感を抱いているかを思えば、あなたが感じておられることは、まったくノーマルなことであり、もっともなことです。大方において、私たちはそれ以外の存在の仕方を知りません。ですから、「この個人としてのアイデンティティーが、神により創造されたままの私たちの真のアイデンティティーの偽りの代替にすぎない」と教えるイエスの教義を自分の中で統合することは、控えめに言っても、かなり難しく感じられるわけです。ですからイエスは、これはゆるやかで穏やかなプロセスであり、彼と共にそれを完全に達成するために、私たちは望むだけの時間をかけてよいのだと、このコースのいたるところで強調しています。 そして、私たちを安心させるために、「自分が不意に引き上げられて実相の中に投げ込まれるのではないかと、恐れることはない」 (T-16. VI.8:1) と言っています。彼は、私たちがこのアイデンティティーを手放すことを恐怖しているということを、良く知っているからです。
私たちが、「赦すこと」を頻繁に選択するようになり、苦情を手放すようになると、自分自身について徐々に気持ちよく感じられるようになってきます。そうすると、それを選択したい、という気持ちがさらに強まります。そして、このプロセスが続いていくうちに、私たちは次第にイエスの考え方や、私たちの人生についての彼の捉え方に、より強い一体感を抱き始めます。
つまり、自分の人生の判断基準が、単に自分の必要が満たされるかどうかということだったのが、徐々に、私たち全員が〈間違った心の状態〉と〈正しい心の状態〉のどちらにおいても同じ利害を共有していると認識できるかどうか、という方向へ移行していく、ということです。この世界や人々を自分の必要を満たすために用いることばかりに気を取られることが少なくなってくると (つまり、自分の人生の目的を異なった見方で見るようになると)、私たちの自己概念は、たとえ直接そのことに意識を向けていなくても、変化し始めます。
私たちが完全にイエスの考え方と一体感をもつようになるとき、私たちにとって魅力あるものはイエスの愛だけとなります。そうして、私たちの思考や知覚のすべてがその愛を源とするようになったときには、自分が個人であるという私たちの感覚は、イエスの癒しに満ちた愛を、それを求める他の人々へと延長させる手段となり得ますし、唯一そのようになり得たその度合いに応じて意味のあるものとなります。それが〈実相世界〉として知られる心の状態です。それが〈赦し〉の実践が自然にもたらす結果です。
ですから、そのような進歩した段階に達したときには、私たちは、もはや自分自身のことを、満たされるべき数々の必要や到達目標をもった人格として考えてはいないでしょう。そのとき私たちは「戦場を見下ろす」視点から知覚するようになり、私たちの目に見えるのは、ただ、自ら作り出している夢の中の登場人物にすぎない自分であることを自覚せずに愛を呼び求めている人々だけ、となります。
[2009年12月19日]