DO NOT MISS OUT! AMAZING THINGS ARE COMING!

質問113: 直視すべきは、具体的な形の罪悪感か存在論的な罪悪感か

facim q&a

 以前のQ&Aに、次のように書かれていました。

 

「もし聖霊を選ぶならば、私が学ぶことになるのは、『自分の心の中に埋もれていると信じている罪悪感について、今や別な選択をする機会がある』というレッスンです。それが、その罪悪感を〈赦し〉という癒しの光へ解き放つことになり、もはや、罪悪感にしがみつきながらそれを何らかの偽装された形で投影し続けることはなくなります。」

 

私たちは、状況の背後にある特定の罪悪感や理由に気づいていなければならないのでしょうか? 

 

それとも、単に、このコースが語っている「自分の真の自己と父なる神を拒絶したことにまつわる罪悪感と処罰」というものを直視すればいいだけなのでしょうか? つまり、私たちは、常に同じ理由で、自分と共にこれを直視してくれるようにと聖霊に頼む、ということだけでいいのですか?

 

それで充分なのか、それとも、聖霊に導かれつつ、具体的な状況についての具体的な答えを待ち、そのあとで聖霊に私たちと共に居てほしいと頼まなければならないのか、どちらなのでしょうか? 

 

私は、様々な状況をどのように見るべきか尋ねても、それらがどんなに異なった状況である場合でも、思い出すのはいつも、以前に『奇跡講座』の中で読んだことのある同じ言葉だけなのです。具体的な答えが得られることはまったくありません。たとえば、この状況やあの出来事において、卑怯だったとか利己的だったなどという理由から、私は自分を罰している・・といったような答えは、何も得られません。

 

言い換えれば、私は、この形態の世界からその理由を識別することを、まったくしていないのです。ですから、ある状況が再び生じてくると、以前には対処を誤っていたような気がして、心のレベルでも形態のレベルでも、自分がしていることから、何らかの結果や進歩を得ているという自信がありません。このことに関して、何か助言をいただけませんか?

 

 

回答

私たちが対処する必要のある唯一の問題は、心の中の存在論的な罪悪感のみです。つまり、「自分は神から分離してしまい、その過程で神を攻撃して破壊してしまった」という私たちの信念にまつわる罪悪感です。

 

そうは言っても、どのようにしてその罪悪感と接点をもつかは、世界の中の自分や他者の肉体への投影を通して、心がどのようにその罪悪感を偽装してきたかによります。通常、私たちは、具体的な状況や出来事への反応や、それらについての記憶から始めますが、そうしたものは、私たちの気持ちの原因として知覚されるようにと、自我が巧妙かつ欺瞞的にしつらえたものであり、それは、私たちがその原因を心の中に探さないようにするためのものなのです。

 

ここで、聖霊は自我に対して形勢を逆転させます。心の中の罪悪感を隠したままにしておくためのごまかしや煙幕として世界の中に作られたものが、今度は、隠されていた罪悪感を表す象徴となり、それゆえに、心に注意を戻すための手段になるのです。そこで私たちは、罪悪感との接触を取り戻すことができます。

 

しかし、この逆転(T-28.II; W-pI.11.1)がうまくいくためには、私たちは、出来事についての自分自身の解釈よりも聖霊の解釈を受け入れる意欲がなければなりません。そのことは、起こったことについての自分の結論は間違っている、と私たちが認めることを意味しています。

 

さて、私たちの心の中の存在論的な罪悪感は、様々な異なった形へと投影されることがあり得ます。たとえば、肉体の病気とか、何らかの方法で自分を傷つけた他者に対する怒りとか、肉体としての私たちがしてきたことやしそこなったと信じていることにまつわる罪悪感などです。これらすべては、「心が忘れられた状態」という自我のゴールに役に立ちます。なぜならば、それらにより、私たちは心の中よりも外界に焦点を合わせたままになるからです。

 

しかし、いったん私たちが、「それらは単に、心の中に潜む罪悪感の象徴にすぎず、内から外に投影されたものである」ということを受け入れることができたならば、私たちは、心の中の問題の源へと戻ることができます。そして、〈正しい心〉の中のイエスや聖霊につながることにより、罪悪感という幻想を解き放つことができます。その罪悪感が、その下に愛を覆い隠していたものなのです。

 

ですから、あなたのご質問にお答えするなら、あなたが特定の状況において体験している罪悪感の背後にある具体的な想念や裁きに触れることは、必要ではありません。自分は罪悪感を感じている(あるいは、怒っているとか病んでいる・・など)という事実だけが、あなたが認識して認める必要のあることです。

 

しかしあなたは、自分が罪悪感の具体的な理由を直視することがあまりにも苦痛に満ちて困難だと信じているがゆえに、罪悪感を直視することを何らかの形で無意識的に拒否していないかどうか、自分自身に正直にならなければなりません。イエスは、次に挙げる一節において、恐怖について述べている文脈でこの話題に触れていますが、これは罪悪感にも同様に当てはまります。

 

恐れが地下に潜伏し、闇に紛れ、その正体とはまるで違った形で浮上してくるまでに通過する入り組んだ道すじを、すべて辿っていく必要はない。だが、あなたがそれらの形のすべてを支配している原則をもち続けようとしている間は、それぞれの形を点検することは確かに必要である。あなたがそれらを別々のものと見なすのではなく、同じ想念がさまざまに異なる形で現れただけであり、しかもそれは自分が望まない想念だと、自ら進んで見なそうとするとき、それらはすべて一緒に消えてゆく。(T-15.X.5:1-3)

 

言い換えれば、このコースの原理の一つについての知的な理解にすぎない事柄を、自分の自我の醜さだと自分が信じているものに触れるのを避けるための方法として用いないようにすべきだ、ということなのです。しかし、もしあなたが、無価値感や、自己嫌悪や、至らなさの感覚や、罪悪感のその他のバリエーションを感じることを受け入れ、これらの気持ちを、たじろぐことなく、オープンに、正直に直視するのであれば、あなたがそのように感じる理由として自我が与えたがっている具体的な説明は、それほど重要ではありません。

 

あなたが「同じ間違いを繰り返し、どのレベルにおいても本当には進歩していないように感じている」という事実については、それが様々な事柄を反映している可能性があります。すでに言及したように、もしあなたが、心の中のあまり具体性がなく抽象的な罪悪感という概念を用いて、「自分自身について真に信じていることを直視するのを避けるための方法」としているのであれば、あなたは、闇を明るみに出す意欲があるのかどうかということについて、できる限り自分に正直にならなければなりません。闇を明るみに出すというのは実際、自我と同一化した心にとっては、とても恐ろしいプロセスなのです。

 

あるいはまた、自分自身についてのあなたの苛立ちは謂れのないものだという可能性もあります。イエスは、結局のところ、私たちは自分の進歩を判断できる立場にはいない(T-18.V.1:4-6)と私たちに忠告しているくらいなのですから。今この時点で、これまでもよくあった状況において平安を失ってしまったとしても、だからといって、それ以前の神聖な瞬間において「罪悪感を手放すことができた」と自分で思ったのに実は失敗していた、という意味にはならないのです。けれども私たちの自我は、私たちが自分自身についてそう信じることを欲しています。そうすれば、希望をもつ理由はほとんどなく、絶望する理由は充分あることになり、それが自我の好む結果だからです。

 

ですからあなたは、自分の役割は単に闇を明るみに出すことだということを覚えておくとよいでしょう。すなわち、あなた自身の心の中の罪や罪悪感が様々な形であなたの外の肉体や世界へと投影されているときに、そうした出来事の正体を識別する、ということです。そして、あなたがそれらを聖霊に差し出せば、あなたをそれらから解放してくれるのは聖霊の優しい愛だということも、思い出さなければなりません。

 

もしただこれだけをするなら、あなたは、自分をわが家へと導いてくれる正しい階段を上っているのだと信頼して大丈夫です。そのとき、階段は何段あるのかとか、自分が上らなければならない階段はいくつあるのかといったことを気にする必要はないのです。

 

All The Tools You Need To Build A Successful Online Business

Lorem ipsum dolor sit amet, metus at rhoncus dapibus, habitasse vitae cubilia odio sed. Mauris pellentesque eget lorem malesuada wisi nec, nullam mus. Mauris vel mauris. Orci fusce ipsum faucibus scelerisque.