質問114: 他者の癒しと自分の癒し
「バッチ・フラワー・レメディー」〔訳注〕の処方のためにダウジングを使うとエネルギー的に効果的だと言われていますので、私はそのやり方をしばらく前から使うようになっていて、友人たちや私自身、また私の息子や飼い猫にも良い結果が得られたという経験をしてきました。
最近、私がこの方法で、ある人のために処方した「レメディー」の配合が、私自身にとっても最適な配合だったという体験をしました。そして、このことがわかってからは、そのときの私とその人のどちらにとっても、もはや特定の「レメディー」の処方は必要ないように思えました。「私が他者のためにダウジングをしていたときに、私自身もそこからエネルギー的に恩恵を得ていた」とわかって、感謝の気持ちが湧き上がるのを感じました。私の感覚では、「癒されているヒーラー」と「癒されていないヒーラー」の違いを垣間見たような感じがしました。そして今、それはすごく道理にかなっていると感じています。私は、自分自身以外の誰のことを癒すこともできないわけですから。
もし、今後も私がダウジングを使って「レメディー」の処方を行うことがあるとしたら、その場合は、私が自分の自我が後押しするサービスを他者に提供するために行うのではなく、「私を癒してくれるヒーラーとしての誰かが、私のもとに来てくれたから」という理由で行うことになるのだろうと思います。
言い換えれば、その人のために私がダウジングで処方した「レメディー」の配合がどんなものであっても、そこから私が汲み取れるメッセージを、私自身のためにも感謝して受け取ることができるようになるために行う、ということです。
おそらく、このことに照らして考えれば、同じ人のために二人の人が別々に「レメディー」をダウジングで処方したときに異なった「レメディー」の配合になることがある、という事実について、説明がつくと言えるのではないでしょうか?
二人が異なる結果を出したからといって、それぞれのダウジングが不正確だったということではなく、ダウジングも、他のすべてのこと(そしてすべての人!)と同じく、ただ愛の使者としてここに存在しているだけだ、ということなのではないか、と。一言で言えば、私たちはお互いを癒すヒーラーだということ。そして、そのことを知ることが、「自分とは何か」についての自我による概念を私たちが笑って退ける助けになるし、「脅威は存在しない」ということを思い出す助けになる、ということなのではないでしょうか。
これについて何かご意見をいただけますか?
〔訳注〕「バッチ・フラワー・レメディー」と「ダウジング」: これらは『奇跡講座』には全く無関係ですが、質問の意味がわからないと回答のニュアンスもよく理解できなくなりますので、これらの言葉について説明しておきます。「バッチ・フラワー・レメディー」とは、1930年代に英国の医師バッチ博士により開発された自然療法です。38種類の花のエキスを小さな瓶詰にしたものが「レメディー」と呼ばれ、それぞれが特定のネガティブな感情の癒しに効果をもたらすとされています。(たとえば、「ヒイラギ」のエキスは嫉妬や猜疑心に効く、「野バラ」のエキスは無気力・無関心・諦観に効く、など。)さらに、どの「レメディー」が自分に必要かということの選択には、いろいろな方法(単に「惹かれるものを自分で選ぶ」というやり方も含む)が用いられていますが、この質問者は、「ダウジング」を用いていると言っています。「ダウジング」とは、本来は地下水や貴金属の鉱脈などを見つけるために振り子や棒のようなものを使うという昔からある方法ですが、近年では、ペンデュラム(振り子)を使った占いのようなものも「ダウジング」と呼ばれることがあり、この質問の中の「ダウジング」という言葉は、後者の意味で用いられています。
回答
あなたは、「バッチ・フラワー・レメディー」という特定の状況で、癒しに関して本当に有益な体験をされたようですね。
あなたが体験されたことの本質をもう少し明確にしてみましょう。まず助けになるのは、「あらゆるもの(そして、あらゆる人)が、実際には、私たちの心の中にある象徴だ」と思い出すことです。そして、それら(または彼ら)がもつ意味は、愛の使者となるか、罪悪感と恐れの使者となるか(T-19.IV.A.i)ということですが、そうした意味は、それらのものごと自体(または彼ら自身)の何らかの特徴に依拠しているのではなく、私たちがそれら(または彼ら)を見るために、どちらの教師を選んだかに依拠している、ということです。
『奇跡講座』が語っている癒しは、「自分の利害は兄弟たちの利害と同じだ」と私たちが認識するときに起こります。すなわち、「私たち全員が、苦痛と恐れと罪悪感に満ちた思考体系から抜け出す道を探し求めている」という認識です。
しかもその思考体系は、私たち全員がこれまでの人生全般でずっと、かたく信奉しつつ、その枠内で行動してきた思考体系です。そのことを認識したとき、私たちは癒しを体験することになりますが、それは自分にとって特別な意味があるような何らかの具体的な形で起こります。たとえば、あなたが述べておられるような状況においては、それが「バッチ・フラワー・レメディー」という形だった、ということなのです。
けれども、その具体的な形は、その根底にある「心の中の内容」の象徴にすぎません。あなたが述べておられる通り、もしあなたが自分の自我と同一化していたいのなら、あなたは自分のことを「バッチ・フラワー・レメディーの処方において特別な才能をもっている」と考え、他者のことは、「自分とは異なる別個の存在で、自分の必要とは違った特別な必要をもっている人」と見なして、自分は彼らに施しをしていると考えることになるでしょう。すなわち、「癒されていない治癒者{ヒーラー}」(T-7.V.7:1-4, S-3.III)として行動することになります。
ですから、私たちがどちらの教師を選択するかによって、同じ形態すなわち象徴を、「分離の道具」にでも「癒しの道具」にでもすることができます。私たちがそのことを認識するときに明らかになることが、あなたも述べておられる通り、「具体的な形態や治療法は、心の中の真の癒しにとっては二次的あるいは無関係なものとなる」ということなのです。