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質問122: 闇を直視することへの抵抗

facim q&a

『奇跡講座』が意図しているのは、愛と一体性への突然の移行を達成するまで、私たちに「自分の闇を直視させる」ということなのでしょうか? いつか私は、きっぱりと愛を選んで二度と後戻りはしなくなる、ということなのでしょうか?

私は、このコースをしばらく学んだあと、以前は自分自身から隠したままにしていたネガティブな事柄を経験し始めました。このことにより、私はこのコースを放棄したくなりました。どうしたらいいのかわかりません。もし私が、愛だけに焦点を合わせるようにしたら、私は怒りや欲望や貪欲さなどを否認していることになるのでしょうか?

 

回答

心が分離を選択するとき、そのあと心が行う最初のことは、それが自分の選択だったということを否認することです。自我が分離という幻想を実在するかに見せかけるにあたって、この「否認」が、自我の成功の鍵を握っています。ということは、「否認」こそが、自我の思考体系の土台をなしているということなのです。だとすれば、自我への信念を取り消そうとするとき、最も重要なステップの一つは、「否認されていたことを明るみに出すこと」だということになります。もしそれが露わにされたなら、もはや否認されていないことになります。だからこそイエスは私たちに次のように教えているのです。

 

幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。・・・ 私たちには、自我の思考体系をもっと詳しく見る準備ができている。なぜなら、私たちが共に居れば、それを一掃できるランプがあるからである。そして、あなた自身も自分はそれを望まないと気づいているので、準備ができているはずである。これを行うにあたり、私たちはきわめて冷静でいよう。私たちはただ正直に真理を探しているだけだからである。これからしばらくの間、自我の「力動論」が私たちが学ぶレッスンとなる。というのも、あなた自身がそれを実在のものとしたので、その向うが見えるようになるためには、まず最初にそれを見なければならないからである。私たちは一緒にこの誤りを静かに取り消し、その後、それを超えたところに真理を見ることになる。 (T-11.V.1:1,3-6)

 

あなたの経験が示している通り、「見る」ということは、恐れや罪悪感を覆い隠している「抑圧された憎悪」があることを認めるところから始まります。その恐れや罪悪感とは、「分離は実在していて、〈特別性〉の方が一体性よりも好ましい」と信じるという選択からもたらされた結果です。

 

内側のさらに深いところ、罪悪感と恐れの背後には、「神の愛の記憶」が隠されていて、私たちが本当に恐れているのはその記憶であると、イエスは私たちに教えています。

 

あなたは自分の敵意に深刻に悩まされてはいない。あなたはそれが覆っているもののほうをもっと恐れているがゆえに、それを隠しておくのである。自我なくしては、もっと恐ろしい何かを自分の中に見出すことになると信じていなければ、あなたは自我の最も深い闇に覆われた隅石でさえ、恐れずに正視できただろう。あなたは実際には十字架刑を恐れているのではない。あなたの真の恐怖は、救いに対する恐怖である。 (T-13.III.1:7-11)

 

したがって、自我の計略はすべて、神の愛(すなわち、私たちの救い)を寄せ付けないための防衛となるように企てられています。それらは、否認と防衛の重層構造を作り上げており、私たちは『奇跡講座』の教えの学びと実践を通して、その何重にもなった否認と防衛の層を明るみに出すように導かれていくのです。

 

内なる闇を見ることに対する抵抗とは、内なる光を見ることへの抵抗をカモフラージュしているものなのです。このコースを学ぶ人々にとっては、この抵抗は、しばしば、『奇跡講座』の本を投げ捨てたくなるような衝動として経験されることがあります。あなたと同じジレンマを経験している人たちは他にも大勢いるのです。

 

この「明るみに出す」というプロセスは、ゆっくりと優しく進んでいくことが重要ですし、さらには、イエスが強調している「自我を恐れてはならない」(T-7.VIII.5:1)ということを思い出すことも、きわめて重要です。そうは言っても、私たちが焦点とすべきは、あくまでも、「自我が作り出したものを見ること」でなければなりません。

 

真の心眼{ヴィジョン}を遮っているものに目を向けなければ、それらを退けることはできない。というのも、退けるとは、反対の判断をすることだからである。あなたが目を向けるなら、聖霊が判断する。そして聖霊は真に判断するだろう。だが、あなたが隠しておくものは、聖霊がそれを光で消し去ることはできない。というのも、あなたはそれを聖霊に差し出しておらず、聖霊はあなたからそれを取り上げることはできないからである。(T-12.II.9:6-8)

 

私たちが見たものについて聖霊に判断してもらうためには、私たちは自分ではどんな判断もせずに見るようにしなければなりません。自我の空騒ぎのいくつかを目にして、私たちが怖がったり嘆いたりするとき、その理由は、私たちがそれらを罪深いと判断して、深刻に受けとめたからです。 これが、罪悪感を永続させることになります。そしてその状態が、私たちを幻想の中につなぎ止め、確実に〈特別性〉にしがみつかせ、聖霊をその場から閉め出しておくのです。

 

そうして、罪悪感と恐れが健在のまま維持され、それが愛の現存を自覚できなくさせるのです。

 

愛を探す必要はありません。愛は失われてはいないからです。私たちが狙いを定める標的は「恐れを取り去ること」であり、それにより、愛の光が闇を消し去ることができるようになります。そうすれば、愛が恐れと入れ替わります。なぜなら、愛はもともとそこにあったからです。

 

あなたは愛を追放しようとして成功しなかったが、恐れを追放することを選ぶなら必ず成功する。・・・恐れを隠したり縮小したり、その重要性を何らかの形で否定することなどによらずに、私たちが恐れを克服したとき、あなたが真に見ることになるのはそれである。(T-12.II.9:1,5 下線はワプニックによる)

 

恐れが後退して自我の〈特別性〉の魅力が弱まってくるにつれて、恐れを選ばないようにすることは容易になってきます。これは、少しずつ進んでいく学びのプロセスです。突然、〈正しい心〉に「パッと切り替わる」というようなものではありません。それを妨げている裁きや不満や非難は、それらにしがみつかないことを選択することにより、取り除かれていきます。けれどもまず初めに、それらが認識されなければなりません。もし怒りや貪欲さや、何らかの形をした恐れが否認されているなら、愛が現れ出ることはできません。繰り返しますが、「否認」が恐れを保持しているのです。そしてその恐れによって、愛の自覚が阻まれています。私たちは、イエスが教えている以下のことだけに焦点を合わせる必要があります。

 

痛みのある箇所を一つでも聖霊の光から隠されたままに放置してはならない。あなたが明るみに出すことを恐れているような考えがないかどうか、注意深く自分の心の中を探しなさい。 (T-13.III.7:5 下線はワプニックによる)

 

そしてまた、右記の引用文の少しあとで、次のように言われています。

 

あなたはただ、自分が鏡の上に描いた秘密の闇を表す形象のすべてを拭い去っておくだけでよい。神ご自身がその鏡の上に輝くだろう。
(T-14.IX.5:5-6)

 

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