質問125: 気が滅入るクリスマス
私はこれまで『奇跡講座』を学んできて、年を経るごとに、クリスマスの季節にだんだん嫌気がさして、気が滅入るようになってきています。
この時期は、私にとって、「自我がこの時節に与えた特別なメッセージと意味の正当性を証明するもの」にしか見えなくなっているのですが、そのような状態で、どうすれば私は、「自分も人々の仲間に入り、喜びに溢れ朗らかでいたいという気持ち」と折り合いをつけることができるのでしょうか。
まるで綱引き状態のようです。一方ではイエスを「神聖な誕生」のゆえに特別なものにしたいと望み、もう一方では、「この祝日に加わることを望まない」という理由で自分自身を特別なものにしたいと望んでいる、という具合です。
クリスマスという祝日を裁かないように努めていますが、それよりも自分は無感動になっているような気がします。このことを別な見方で見ることができるよう助けていただけますか?
回答
『奇跡講座』をより深く理解するようになってくると、この世界の価値感や信念(クリスマスのように、最も「神聖」とされるものも含む)の無意味さが見えるようになってきます。自我にとっては、その認識こそがまさしく「気の滅入ること」なのです。というのも、自我は、「聖なるもの」から承認されることを何よりも望んでいるからです。この世界を救済するために神が我が子を世界の中に送り込んだとすること以上に、この世界が実在していることや、私たちがその中に存在しているということの大いなる証明となるものがあるでしょうか?
それゆえ、この信念に異議を唱えるということは、自我にとっては甚だしい脅威と感じられることなのです。あなたが述べているような葛藤はよくあることであり、無意味さの中に意味を探している限り、避けられないものです。
もしクリスマスの祝祭に「神聖な」という意味合いが付与されていなかったとしたら(実際、そのような意味合いは付与されていないのですが)、または、もしクリスマスが、人々が世界の中で楽しむ他の単純な愉しみと何ら違いがないものと見なされていたなら、この祝日に対する反応は、海辺で過ごす楽しい1日に対する反応と何ら違っている必要はないはずです。
この祝祭の様々な活動に参加することが問題なのではありませんし、それらに対して無感動でいることが解決になるわけでもありません。
あなたが述べているような葛藤を引き起こしているのは、「自我の狂気が真実であってほしい」という願望や、「神を除外して真理を否定するために作り上げられた多くの代替の中に、救済が見つかってほしい」という願望なのです。
こうしたことは少しずつ学ばれていくものであり、クリスマスもそのための〈教室〉です。それは、肉体としての自分のアイデンティティーを防衛することや自分が正しいと証明することに対して、私たちが抱いている根深い思い入れを認識するための完璧な〈教室〉となります。
「自分はこの世界の中にいる肉体だ」と思ったり、「他の多くの物事の中でも、とりわけクリスマスが私たちを幸せにする」と思ったりすることが、実際には私たちを非常に惨めにすることなのです。私たちの真の望みの綱は、「自分は、自分が誰なのかを知らないし、何が自分を幸せにするのかも知らない」ということを受け入れることにあります。
その時に私たちは、私たちの本性は神のひとり子であるという聖霊による定義を喜んで受け入れようとするでしょうし、私たちの真のアイデンティティーを知ることに幸せを見出すことでしょう。
クリスマスの贈り物やイルミネーションや諸々の象徴は、特別性を讃えるために自我が作り出したものですから、それら自体は無です。実は、『奇跡講座』の中で、イエスはそれらと同じ象徴の数々を、分離と特別性という自我のメッセージとは逆のものを私たちに教えるために使用しています。間違いとなるのは、それらの象徴自体が私たちを真に幸せにしたり、私たちが探している平安を与えてくれたりすると信じる、ということです。この信念が、あなたが述べておられる落胆を引き起こしているのです。
平安に満ちた祝日を過ごせるようになる見込みは、幻想に過ぎないこれらの信念を、単に幻想に過ぎないものとして、裁かずに直視しようとする意欲があるかないかにかかっています。イエスは「このクリスマスには、あなたを傷つけるすべてを聖霊に与えなさい」(T-15.XI.3:1)と告げています。そして、私たちは、この助言に従うとき、自分自身に真の贈り物を与えるのです。自分を傷つけるものとは、自我の思考体系と同一化することです。
クリスマスに贈り物をするときに、「大切なのは、(贈り物の背後にある)想いだ」ということがよく言われますが、それはここにも当てはまります。聖霊に与えられた時に変容させられるものというのは私たちの間違った想念であり、それらが変わることにより、自我の嘘という狂気からの深い開放感が私たちにもたらされるからです。ですからクリスマスの祝祭を、自我の特別性を強化するものとしてではなく、聖霊の赦しのレッスンを学ぶためのもう一つの〈教室〉と見なしつつ、そこに参加することは可能です。そのように考えることで、私たちはどんな形であれ、ふさわしいと思える形で祝祭に参加しながら、このクリスマスの時節に平安を見出すことができるのです。
[2019年12月12日]