質問133: 東南アジアで起こった津波について
最近、東南アジアで起こった津波について、何かコメントしていただけませんか? 『奇跡講座』を学ぶ者として、私はこの出来事をどう見るべきなのでしょうか?
回答
「どう見るか」ということへの短い答えは、「聖霊と共に見る」です。でも、それがどういう意味なのかについて、もう少し詳しく見てみましょう。
『奇跡講座』は、私たちが遭遇する出来事のすべては、私たちが自分で書いた筋書きだと教えています。
もし人生が夢であり、私たちはその夢を見ている者だというのなら、どんな夢を見るかを選択したのは、私たちの心だということになります。津波のような、多くの人々が同時に見舞われた災難は、私たちが集合的にそれを経験することを選択した、ということなのです。
何かが「なぜ」起こるのかとか、それが「どこから」くるのか・・といったことについては、上記のこと以上に深く考える必要はありません。それは、夢の中の登場人物(言い換えるなら、私たちが「自分」として一体感を持っている個人としての自己)が選択したのではありませんから、自分がその経験に巻き込まれたのは自分のせいだと感じる必要はありません。(実は、そうすることは、ただ私たちが自分の罪悪感を強化するという自我の目的に役立つだけです。)私たちがする必要があるのは、この津波のような出来事への自分の反応を、夢から目覚める助けとなるように使う、ということです。つまり、自分の反応を、別な選択をすることのできる心の部分に戻るために使う、ということです。
このコースの全目的は、「私たちは教師を取り換えて、思考体系を取り換えることができる」ということを私たちに思い出させることだという点を、覚えておいてください。私たちは、自我の声(「世界は実在していて、私たちは世界の被害者である」と私たちに教える声)から聖霊の声(「これはすべて作り話であって、私たちは今も神の愛の安全の中でくつろいでいる」と教える声)へと焦点を移し替えることができます。ひとたびそれが真理だということを知るなら、私たちも『奇跡講座』の中で言われているように、「奇跡に難しさの序列はない。一つの奇跡がもう一つの奇跡よりも「難しい」とか「大きい」ということはない」(T.1.I.1:1,2)と言うことができるようになります。
イエスにそのような発言ができる理由は、彼が時間と空間の外から語っているからです。すなわち、「この世界の中のすべての出来事が起こっているように見えている夢」の外から、ということです。ですから、彼の視点からは、津波も戦争もホロコーストも、学校の校庭での喧嘩や爪先の痛みよりも重要だとか深刻だということにはなりません。彼にとっては、すべてが同じです。
もちろん、自分が肉体だと思っている私たちが、彼と同じ見解を共有しているふりをするのは、馬鹿げています。けれども、私たちにできることは、「心のレベルにおいては、これらの状況に対処するプロセスはどの場合でも同じである」と理解することです。そのプロセスとは、言い換えると、自我の観点から聖霊の観点への移行という、奇跡を経験できる地点にまで戻るプロセスです。
このコースを学ぶ私たちは、いかなる状況に直面しているときでも、その中でイエスか聖霊に、自分が経験している考えや感情を正直に直視するための助けを求める必要があります。それは、すべての人々の中にある罪悪感と恐れを認識する光 ― 裁くことのない慈愛の光 ― の中で、自分自身の反応を観察するということです。
世界は、本当に真っ白なスクリーンであり、その上に私たちが自分の中に見たくないものすべてを投影しているだけです。ですから、私たちが自分の生活や世界の中で起こる出来事への自分の反応に目を向けることが、自分が投影したものを取り戻す唯一の方法であり、それにより、いつか、それらは単に「自分の心の中の神の愛を覆い隠している覆い」にすぎないということがわかるようになるのです。
その観点からは、最近の津波のような悲劇的な出来事は、絶好の機会を提供してくれていることになります。15万人以上の人々の命を奪った災害について耳にしたなら、事実上誰もが激しく反応します。通常、私たちの反応は、「自分たちは被害者である」ということを何らかの形で肯定するような反応となります。おそらく私たちは、(いくらこのコースを学んでいるとはいっても)この壊滅的な大惨事は、やはり神による天罰なのではないかと思いたくなることでしょう。あるいはまた、自分や自分にとって大切な人たちがいつどの瞬間にでも落命することがありえるような、まったく予測できない世界に、自分が存在している・・・ということを思い知らされて、恐ろしくなるかもしれません。または、他の人々が苦しんだり、亡くなったりしているのに、自分は物理的に安全な環境にいるということについて、うしろめたさを感じるかもしれません。あるいは、事件の前または後に、被害者たちを救うことができるようにもっと多くのことが為されるべきだったという思いから、怒りを感じるかもしれません。
でも、もし私たちが聖霊の手を取り、真に見るなら、形態のレベルでは悲劇的だったこの出来事においても、そこから浮上してくる私たちの反応はどれも、究極的には、単に私たちがすべてのものごとについて感じていることの何らかのバリエーションである、ということがわかります。すなわち、ここでも、「私たちは外界の原因によって被害を受けている肉体である」ということを肯定しているのです。聖霊の声は、その正反対のことが真理であると、私たちに教えてくれます。外界の要因は私たちを傷つけることはできません。なぜなら、私たちの個人的な世界や集合的な世界で何が起ころうとも、私たちから神の平安を取り去ることができるものは何もないからです。
ひとたび私たちがこのレッスンを本当に習得したなら、それが喚起する愛を、私たちの考えや言葉や行動が自動的に反映するようになります。そうすると、どのような状況においても、私たちは他の人々に対して愛ある対応ができるようになります。彼らが被害者のように見えるか、悪人のように見えるかにかかわらず、あるいは、彼らが地球の反対側で実際に津波の被害を経験した人なのか、自分が今いる場所で自分の目の前にいる人なのかにかかわらず、同じく愛ある対応ができるようになります。
[2024年2月21日]