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質問134: 戦争で落ち込んでいる自分に対する怒り

facim q&a

『奇跡講座』が行動のレベルを対象としてはいないこと、そして、憂鬱や落胆などは神を攻撃しようとしているのと同じだと説いていることを、私は理解しています。ですから、私は、イラクとの戦争について落ち込んでいた自分に対して、怒りを感じてきました。私はそんなレベルを「超越」しているべきだと思っていたからです。私がこの物理的世界のレベルで平和が訪れることを望んだのは、間違っていたのでしょうか? 平和が訪れなかったから私が落胆したという事実は、私の〈特別性〉の徴候でしょうか?


回答

 

物理的なレベルで平和が訪れることを願うのはごく普通のことです。他の多くの人たちも、戦争や世界情勢全般について、落ち込んでいます。あなたが間違っているところは、自分自身に怒りを感じていて、自分は落ち込むことなど超越しているべきだと考えていること、それだけです。



「テキスト」第10章セクションVでは、いささか劇的な表現を使って「憂鬱」を「涜神」と関連づけることによって、イエスは、心の中で「癒しをもたらす愛」のかわりに自我(特に病気の神)への忠誠を誓うことが及ぼす影響について、私たちに知らせようとしているのです。落ち込んでいるときというのは、あなたはただ、ものごとについての自我の見解と同一化しただけです。しかし、それよりも、あなたは一日中他のさまざまな形でも自我と同一化しているはずです。それならば、この「戦争」という形態によって自我と同一化したとしても、驚くにあたりません。私たちは、「酸素の供給が止められたら怖いと感じる」ということでさえ自我の反応なのだということを、簡単に忘れてしまいます。だから私たちはいつでも自我の反応をしているわけですが、それらの反応の間に序列をつけることが間違いなのです。あなたが a とか b とか c といった状況を、「超越するべきもの」と感じて、それができていない自分を裁きたくなった時にはいつでも、その場で立ち止まって、「この裁きの思いは自我から生じているのだから、深刻に受けとめるべきではない」ということを思い出さなければなりません。私たちを親切に優しく導いているイエスは、決してあなたの思ったような裁きの言葉を口にすることはありません。



繰り返しますが、世界に平和があってほしいと願うのはごく普通のことです。けれども、それについては、「あなた個人の世界の中で、個人としてのあなたというアイデンティティが関わる〈特別な関係〉」という枠組みの中で考察することもできます。



その意味においては、世界に紛争がなければ、個人としてのあなたのアイデンティティは安全になり、問題も少なくなることでしょう。そして、戦乱に我慢できなくなって怒りが爆発したり、落ち込んだりするのなら、そうした気持ちは、あなた自身が深いレベルで感じている途方もない不安感をあなたに思い出させているという場合があります。なぜなら、あなたの心の中のどこかで、あなたは「個人としての自分という存在は、本物ではない」と知っているからです。自我の〈間違った心〉の中では、あなたは(他の誰もがそうであるように)、「自分の存在は神を犠牲にすることよって生じた」と信じています。だから、大混乱が起こらない世界というものが、心の奥深くにある不安感に対する防衛となりえるのです。その不安感は、神から切り離されたと信じる心の中に常に存在するものです。また、私たちは天国にある本当の故郷のかわりに物理的世界を作りだした者たちであり、「私たちは神がいなくてもうまくやっていける」と思っているのですから、世界が「うまく機能しない」ときには、私たちは自分が失敗したかのように感じるわけです。そういう意味では、落ち込んでいる状態は、その失敗の感覚に対する反応の一つなのです。自分が神を否定しているということ(すなわち、神への冒涜)を、再び思い知らされるからです。



一方、人によっては、世界の中の混乱や争いについて気にしてばかりいることによって、自分の心の中の混乱や争いに向き合わなくてすむようにして自分を守っている、という場合があります。しかし、この防衛も、すべての防衛がそうであるように、無意識の罪悪感を強化させます。なぜなら、その場合その人は自分の心から自分を守るという必要を満たすために、世界に大災害が起こることを密かに願っていることになるからです。



このような私たちに『奇跡講座』がもたらしてくれる朗報は、「真の平和は、その本質通りのものとして現れるために、外的なものに依存する必要はない」ということです。イエスが私たちに理解させようとしてるいのは、世界の平和は、たとえそれが達成されたとしても、常に脆い平和であり、それゆえに、私たちが切望しているような安らぎをもたらすものではない、ということです。世界の平和は特定の条件が揃うことに依存しており、その条件を維持していく者たち(政治的には「平和維持軍」など)が必要です。



イエスが私たちに差し出している心の平安は、ただ私たちの中に回復されるものであり、私たちが代価を払って勝ち取らなければならないものではありません。そして、ありがたいことに、その平安を妨害しているものを選択しないだけで、ただ戻ってくるのです。ということは、私たちはまず自分がそれをどのように妨害してるのかを自覚しなければなりません。すなわち、どのようにそれに対して防衛してるのかを自覚する、ということです。この自覚は、私たちの個人的な「平和維持軍」とでも呼べるものです。 それは、私たちが〈真の自己〉に対する自分の攻撃に気づけるように、常に警戒することです。これらの妨害がなくなれば、平安は自然に私たちを通して流れていきます。そして、そうなったときの私たちは、その平安がどのように延長されていくかとか、それが差し出されたときに他者によってどう受け取られるかといったことには、何の期待やこだわりも持っていません。

 

[2024年2月21日]

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