質問139: 亡き娘は幻想だったのですか?
私は今、『奇跡講座』の形而上学的な原理のいくつかと格闘している最中です。それらは、私にはまだ理解できないことです。あるいは、受け入れたくないことなのかもしれません。例えば、私たちが知覚しているすべてのものは、私たち自身が作り出した幻想だと言われているところとか、その他にも、私たちの 〈特別な関係〉における自我の役割について述べられている多くのことなどが、よくわかりません。
私は11年前に、最愛の一人娘を白血病で亡くしたのですが、娘が私の想像の産物に過ぎなかったと考えるのはとても難しいことです。私たちは皆ひとつであるということ、そして、私たちが神との一体性を認識して、神のもとに完全に戻るときには、個人の人格というものが存在しなくなるということは、わかります。でも、これを書きながらも、私は自分の人格に対するのと同じくらい、娘の人格にしがみついていて、それが、私が自分の行きたいところへ行くのを妨げていることもわかります。
このことを、もっと高い境地から眺めることができるよう、助けていただけないでしょうか? 私の娘は私が作り上げたアイデンティティに過ぎなかったと認めることは、どういうわけか、私にとっては辛いことなのです。今もとても娘を愛していて、彼女がいないことを寂しく感じています。それから、彼女を直接見ることはできないのですから、彼女はただ私の想像の中に存在しているだけなのでしょうか?
回答
いいえ、娘さんは「単なる想像の産物」ではありません。私たちが「自分が作り上げたアイデンティティ」というものについて語るとき、一人の個人が別の個人の存在を想像しているということについて話しているのではありません。一人の母親が自分には娘がいると想像している・・というようなことではないのです。これはまったく別の次元の話です。心のレベルまで、話を戻さなければなりません。そのレベルは本来は抽象性の状態にありますが、その心が抽象性を覆い隠して、その代替えとして、「具体性に束縛されている自己」というものを作り出してしまいました。だからこそ、「自分のアイデンティティーは心である」ということを理解できる人は殆どいないのです。(参照:W-pI.161.2)
ですから、「私たちが知覚するものはすべて、私たち自身が作り出した幻想である」というような話をするとき、「私たち」という言葉は、このように「自我の思考体系と同一化した心」のことを意味しているのです。私たちが身体的/心理的に「自分」だと思っている人間のことを指しているのではありません。さらに、この欺瞞の中には一つの必要が織り込まれています。それは、「心が再び心自体に焦点を合わせてしまわないように、分離状態とその結果の責任を、何らかの外的な存在に負わせなければならない」という必要です。心が心自体に焦点を合わせてしまうと、かつて「自我に従う」という選択をしたことは、そのために支払った代価に見合うものではなかったと、心が気づいてしまうかもしれないからです。だから自我は、自らの生命を存続させるという目的のために、人格をもった無数の存在と、それらが織りなす人間関係というものを作り出しているのです。
ということは、すなわち、心が自我の思考体系と同一化するとき、その心は分裂していき、互いに関わり合う個人たちへと断片化する、ということなのです。そうした関わりにより、分離の実在性が裏付けられ、私たちが自分で選んでもいない物事が勝手に起こるように見えます。それに伴い、私たちは身体的/ 心理的なレベルで失望するかもしれなくても、それでも満たさなければならない必要というものを経験をするのです。
自我の存続のためには、心の中で意識的に選ばれたこの自我の目的を隠蔽し続けることが、決定的に重要であり、それを達成するのが、「投影」という心の力動です。投影は、心を忘れてしまった個別の存在たちを生み出し、それぞれが「自分が存在していることの責任は自分には無く、自分でコントロールできない勢力に翻弄されている」と思っています。これが、被害者たちと加害者たちが住む世界を作り上げているわけです。
これが、「分離の夢」です。それは、夢を見ている心自体が、「自分は夢を見ている」ということをもはや自覚していない夢です。だからこそ、『奇跡講座』の主眼は、私たちが「自分は心であり、絶えず選択をし続けている」という自己認識を取り戻せるように助けることなのです。というのも、心の中には、隠されてしまった思考体系がもう一つあるからです。それは、自我の思考体系を訂正する思考体系であり、私たちの真のアイデンティティであるキリストについての記憶とも言えるものです。
それゆえにイエスは、私たちをその方向へ導くために、私たちの人間関係がどんな目的に役立っているのかを把握することの重要性を強調しています。これは、殆どの人々が全く思い及ぶことがないような考え方です。私たちは、通常、世界が述べている通りの「目的」という言葉の意味以上のことは考えません。ですから、こうした〈形態〉から〈内容〉への移行に対して、私たちは途方もない抵抗を経験します。なぜなら、自我と同一化している私たちは、自分の基盤が脅かされていると感じ、これまで考えてきたことがすべて間違っていたと感じるからです。ですから、私たちは小さなステップで一歩一歩進むことが必要で、一足飛びに自分の霊性に戻れるとは考えないようにしなければなりません。殆どの人々においては、そのような突然の飛躍への恐れがあまりにも大きいからです。
『奇跡講座』が私たちに求めているのは、人生におけるすべてのことについて、「これには別の見方がある」ということを、できる範囲で思い出すことだけです。それができるなら、そのとき何が起こっているか、または既に何が起こったかにかかわらず、私たちは平安を感じることができるようになります。これは、常に分離と葛藤を存続させる結果になる自我のやり方とは正反対のものです。
以上のことをあなたの状況に当てはめるなら、まず、娘さんがいなくなって寂しいと感じることは、間違ってはいません。あるレベルでは、もしあなたがそう感じないとしたら、その方がおかしいとも言えます。あなたは母親であり、娘は娘なのです。母親は子供と離れていれば寂しいと感じるものです。けれども、イエスが教えているのは、「あなたが亡くなった娘さんについて、今どのように考えているかは、あなたの心の中で、その関係のために自我の目的か聖霊の目的かのどちらを支持する選択をしたかを反映している」ということなのです。すなわち、「分離と肉体と死は実在するということ」か、あるいは、「一人ひとりのアイデンティティは共有されていて、死は心に何の影響も及ぼさないということ」のどちらか、ということです。そして彼はただ、あなたが「そういったこともありえるかもしれない」と思ってみることだけを求めているのです。
ですから、あなたのご質問のように「もっと高い境地から眺める」ためには、まず、「自我のゴールを推進するために、あなたが娘さんの死をどう使っているか」を見極めることです。そして、その目的を赦しの目的へと変えるために助けを求めることができる、ということを理解することです。そうすることによって、娘さんへのあなたの愛情が薄れたり、母親としてのアイデンティティが失われたりする結果になることはありません。ただ、そうした体験にこれまでと異なる特質が加わるだけです。そうして、あなたの喪失感は徐々に消えていくでしょう。
[2024年6月4日]