質問14: 「意志」というものの意味
『奇跡講座』は、至る所で「意志」について語っています。たとえば、意志は知覚には関与していない(C.1.7:2)とか、私は自分の意志を幽閉してしまった(T.9.I.4:1)とか、私の心が分裂していなかったなら、私は「意志すること」が救済であることを認識するはずである(T.9.I.5:4)などと言っています。
『奇跡講座』が言っている「意志」とはいったい何のことなのでしょうか? そしてまた、もしそれが<夢>の中で何らかの目的に役立つとしたら、それはどういった目的なのでしょうか?
【回答】
『奇跡講座』が「意志」について語るとき、それは常に神の意志のことを言っています。「神の意志が、存在するすべてである」(C-3.6:1)と言われている通りです。これは、心の中のレベルの中でも、私たちの意志と神の意志が一体であるレベルについて語っているのです。そのレベルにおいては、真理だけが真理であり、他のすべては虚偽です。(T-31.I.1:7)
これは、『奇跡講座』の一元論の一例であり、それによれば、神の意志から切り離された意志はあり得ず、神の意志が私たちの救済であり、私たちの真の意志は神の意志とひとつである、ということです。私たちは、自分自身についての真理を受け入れることを選択しているときにのみ、「意志している」(すなわち、私たちの意志の力を行使している)のであり、それが私たちの救済です。
『奇跡講座』は、「意志すること」と「欲すること」とを区別します。私たちが、罪を実在するものと見なすことを選択するとき、すなわち、夢の中で、自分が本当は誰であるかについての自我の嘘を信じることを選択するとき、私たちは、神の意志に代わる架空の意志を作り出したい、そして、この偽造された自己を守りたい、と「欲している」のです。これが、私たちの真の意志を幽閉する、ということです。つまり、このようにして、私たちは真の意志を否認するのであり、これが、知覚 ー 自分が見たいと望むものを見るということ ー の起源です。
私たちの学びを助けるために、『奇跡講座』は、私たちの夢の中での経験について語る際には、「意志」に関連する言葉として、〈わずかな意欲〉という用語を用いています。
この意味で言えば、意欲をもつということは、別な見方で見るという選択をすることに同意することです。つまり、別な解釈を受け入れたり、自分がすべての対人関係やこの夢の中での経験全体に付加している価値を疑問視したり、自分が自我の決断をしたことで生じた結果を見て、何をその代価として失ったかについてよく考えてみるといった選択をすることに、同意することです。これで充分だと、『奇跡講座』は私たちに教えています。つまり、私たちが旅の方向を転換し、神の内にある故郷、神と共有する一なる意志へと戻っていくには、これで充分なのです。神は私たちの父であり、私たちは罪の無い神の子です。このようにして私たちは、神と共有する意志に私たちを同調させる『奇跡講座』を練習し実践するなかで、夢の中でも、選択をすることができるのです。
[2010年2月21日]