質問141: 病気の苦しみを見過ごして平安を見出すには?
『奇跡講座』の観点からは、慢性的な病気に、どのように向き合うべきなのでしょうか? 絶えず身体的な不調があり、日常生活に支障をきたすような症状の病気です。もしそうした状況にいる人が、その病気を自分の心の中の間違った選択の結果であると捉えることができていて、再び選び直したいという真摯な意欲をもっていて、その間違った選択について自分自身を赦そうとしているとします。そして、その病気には現在の医学では治療法がないとされている場合、どうすればいいのでしょうか。このような状況において、自分自身を赦すために最も親切で優しい方法とは、どのようなものになるのでしょうか。一時的な安らぎという幻想を与えてくれる「魔術的な」解決策さえ無い状態で、継続的な身体の痛みや不快感を見過ごして平安を見出すには、いったい、どうすればいいのでしょうか。
回答
それは極めてお辛い状況ですね。一日も早く何らかの治療法が見つかることをお祈りします。毎日、明けても暮れても、体の痛みで苦しんでいるときに、心の平安を保つのはひどく難しいことです。そのような状況において「自分を赦す」ということは、自分に優しく接することであり、自分の症状の原因となった「間違った選択」にこだわり続けない、ということです。
「自分には罪があり、それには正当な理由がある」と見なす選択が、すべての身体的症状の原因である・・ということは確かではあります。しかも、幻想に順位はないのですから、手首の捻挫であれ、手術不可能な脳腫瘍であれ、どれにでも同じく当てはまります。 しかし、殆どの人は、そのような「自分自身を有罪と見る選択」について直接意識してはいません。ですから、その選択を吟味して、〈正しい心〉に従って選び直すことができる人は、殆どいません。
けれども、一方では、その身体的症状が、〈正しい心〉からの理由で選択されたということも、十分にありえることなのです。その理由とは、例えば、「神の愛と平安の体験は、肉体とは無関係である」とか、「自分のアイデンティティは肉体の限界を超越している」といったことを実体験するため・・というような理由です。
さらには、私たちは自分自身や他の人々の〈贖罪の道〉の全貌を見ることができないのですから、特定の症状について、それがなぜ存在するのか – それが〈間違った心〉の選択の結果なのか〈正しい心〉の選択の結果なのか – を知ることはできないのです。ですから、そうしたことについては、価値判断をしようとしないのが最も賢明なことです。
このコースが私たちに教えてくれることは、「自分の苦しみによって、自分の中の〈神の平安〉が損なわれることはありえない」ということを学ぶめに、助けを求めなさい、ということなのです。もし私たちにできることが、ただ言葉でそう言ってみるだけだったとしても(参照:W.pII.284 )、その癒しのプロセスを始めるのに十分なのです。もちろん、殆どの人たちはそれだけですぐに症状の軽減を経験することはないと思いますが、だからといって、「それには効果がない!」と結論づけたい誘惑に負けないようにしなければなりません。
意欲は常に効果をもたらします。なぜなら、真の病である〈分離〉は、ただ私たちの心の中だけにあり、したがって、癒しは心のレベルでしか起こらないからです。病気の奥底に埋もれている〈助けを求める声〉に向かって、私たちの心の中の〈天国の愛〉の反映は、常に応えてくれています。ですから、私たちは自分自身に対して優しく接する行為として、それが真実であることを認め、そして「私たちは自分の準備ができたときに、それを意識的な自覚の中に受け入れることができる」と確信しつつ、安心していればいいのです。もし、自分は準備ができていないように思えるからという理由で、自分自身を裁くなら、それは、心の中に罪悪感が実在するように見せかけるという自我の目的を支援することになってしまいます。
私たちの心が罪悪感から解放されれば、身体の症状は私たちが注意を向ける焦点ではなくなります。けれども、これは通常、長い期間に渡って日々の練習が必要なプロセスです。
これを認識することに対する抵抗は途方もなく大きい。なぜなら、あなたが知覚している通りの世界の存在が、肉体が決断の主体であるということに依拠しているからである。 (M.5.II.1:7)
けれども、私たちがこのレベルに到達できないということはありえません。なぜなら、それが心の自然な状態だからです。
愛があなたの安全である。恐れは存在しない。愛と一体化すれば、あなたは安全である。愛と一体化すれば、あなたはわが家に帰っている。愛と一体化して、あなたの自己を見出しなさい。(W.pII.5:4-8)
[2024年9月15日]