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質問143: 邪悪さに対する憎しみ

facim q&a

私には、どんなにがんばっても解決できない問題があります。それは私が自分の生活の中で関わる人々の邪悪さに関する問題です。赦したいと思うのですが、正直な気持ちとしては、とても赦すことなどできないのです。なぜなら、私は怒りを感じますし、邪悪さを憎んでいるからです。祈りは、愛を肯定する気持ちをもたらしてくれます。私はこの愛を人々から受け取りたいのです。でも、同時に、人々のこと恐れてもいます。

私の平安の前に立ちはだかるこの壁を、どうすれば超えていくことができるのでしょうか?

 


回答

 この種の状況は、通常、打開するのが難しいものです。多大な忍耐をもって、自分自身に優しく接する必要があります。もちろん、赦すということの意味は、いわゆる「客観的な事実」(例えば、虐待、育児放棄、利己的な行動など)を、あなたが無視すべきだということではありません。赦しがあなたに求めていることは、あなた自身の中に存在する「咎めることのない愛」のところまで、自分の怒りや被害者意識を運んでいくことです。そして、「自分に平安がないことを他人のせいにしている自分自身」を、ただ観察することです。

本当は赦したくないのに赦そうとするなら、あなたは自分自身と戦うことになり、罪悪感を強化する結果になるだけです。それは、あなた自身に優しく接することではありません。非難や怒りを手放せずにいることは罪ではありませんし、それがあなたに対するイエスの愛に影響を及ぼすこともありません。それはただ、あなたが安らかになり、その愛に触れることを妨げるだけです。それだけのことです。

邪悪なものに対する感情に触れているとき、あなたが思い出すと良いのは、私たちが神から離れると決めたときの原初の選択についての、以下のアドバイスです。

それを罪と呼ばずに、狂気と呼びなさい。それは確かに狂気であったし、今も狂気であり続けているからである。そこに罪悪感を投入してはならない。なぜなら、罪悪感は、それが実相の中で達成されたと示唆するからである。そして何よりもまず、それを恐れてはならない。(T.18.I.6:7-9)

もしあなたが邪悪さを憎んでいるのなら、それを恐れているということです。そして、愛の視点からは何が見えるのかをあなたが忘れているということです。愛にとっては、邪悪さというものは、「愛に影響を与える力を全くもたない小さな狂った考え」にしか見えないのです。すなわち、あなたが他人の中に知覚した邪悪さによって、あなたについての真実が損なわれることはなかった、ということです。あなたの中でその真実を恐れている部分は、「邪悪さは実在し、強力な力をもっている」と見て、その力があなた自身を弱き者とすることができると思い続けているのです。

 
最後に述べておきますが、場合によっては、セラピストやカウンセラーに助けてもらって、あなたが内的な強さをある程度まで取り戻してから、人間関係への恐れの癒しに取り組むと良い、ということもありえます。その後であれば、それよりもっと深いところにある問題に取り組んで、それらに『奇跡講座』の原則を当てはめることができるようになります。

 

訳注:最後の段落の「セラピストやカウンセラーに助けてもらう」という必要がある場合に関しては、JQA#24の回答の中の[注]も参照してください。 

 

[2024年10月16日]

 

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