質問144: 幽霊という概念の意味は?
幽霊というのは、世界中に広まっている概念だと思います。世界中で通用する共通点を考えてみると、夢の世界に住んでいて成仏できない魂、物理的な肉体を失った存在、肉体が死んだということに気づくことを拒んでいる存在、そして、自分の知っていた世界から離れたくないと思っている存在・・などが挙げられます。
こうした幽霊という概念には、何らかの意味があるような気がします。これは、私たちが自分の実相とそこからの分離について思い出さないことを正当化できる説明として、自我によって構築されて、世界中で広く信じられているものなのではないでしょうか?
回答
自我の欺瞞的な策略の中でも最もよくあるパターンの一つは、自我の思考体系の一面を取り上げて、それに対して、私たちの経験の中の特定の範囲に限定された定義を付与することです。それによって、その一側面が自我の邪悪な支配下における「現実」に浸透しているものであることを、私たちが見抜けないようにするのです。ですから、この偽りの「現実」と私たちの真のアイデンティティとの間に挿入された「欺瞞と混乱のヴェール」を超えて見ることができるようになるためには、この思考体系の外に居る誰か、または少なくとも、それと完全には同一化していない誰かの存在が必要となるわけです。
ですから、例えば、私たちは「眠っている時」と「目覚めている時」というふうに区別できる状態を経験しているように思えますし、「夢を見ること」は、明らかに、「眠っている状態」に伴うもののように見えます。そうして私たちは、睡眠と覚醒、夢と現実の違いを知っていると信じています。だから、私たちは、「この世界で経験するさまざまな心の状態は、自分がただ延々と眠り続けている間に、一つの連続した夢の中で起こる無意味な推移にすぎないのではないか」と疑ってみることがないのです。「目覚めている状態」と「夢を見ている状態」には違いがあると考えているので、私たちは「目覚めているとはどういうことなのかを、自分はよく知っている」という思い込みを、決して、疑うことがありません。けれども、イエスはそれに対して疑問を投げかけています。(参照: T.10.I.2,3、 T.18.II.5)
私たちはまた、狂気や精神疾患についても、特定の人々だけに適用されて、他の人々には適用されないものとして定義しています。そして、自分はこの世界の中での正気というものを知っているし、それを身をもって体験していると信じ込んでいます。そのように、私たちは「正気とは何か」を知っていると思っているのですから、この世界での私たちの思考のすべてが狂っているなどという可能性については、考慮してみることさえしないのです。けれども、イエスはそれとは違うことを知っています。 (参照: T.9.VII.6、T.10.V.10、T.23.II.14)
さらに、私たちは「生」と「死」の違いが分かっていると信じています。生と死は、私たちにとっては明らかに、肉体の状態として併存できないものです。私たちは自分が生きていると分かっているし、「誰が死んでいるか」については、非常に客観的な基準によって識別することができると思っています。だから、私たちの存在全体が、「生命そのものから自分を切り離すことができる」という信念を前提とした「死の一形態」なのではないかという疑問を抱くことは全くないのです。けれども、イエスは私たちをそれとは別の結論へと導くことができます。 (参照: T.23.II.19、 W.167)
そして、もちろん、私たちは愛と憎しみの違いも見分けられると思っています。なぜなら、それらが現れるときの形態については、自分で容易に認識できると信じているからです。だから、私たちが愛と呼んでいるものが、実は憎しみが愛を偽装する形の一つの現れ方にすぎないのでないかと疑ってみることは、全くないのです。けれども、イエスは騙されません。(参照:T.16.VII.5、T.23.II.17、T.23.III.1,2、T.29.I.6,7)
そういうわけですから、おっしゃる通りです。幽霊も、自我による目眩まし戦法のもう一つの形となるのです。「幽霊は実在するのか?」、「死後の世界で個人の存在は存続するのか?」などの疑問によって、それより深いレベルにある真理を覆い隠してしまいます。結局のところ、私たちは、幽霊というものについては、「それが仮に存在するとしても、私たちの本質 ― 生きていて、実体があって、実在しているもの ― とは違った何かである」ということが分かっていると思ってます。ですから、私たちが「自分」だと思っている自己というのは、実は、私たちの真の自己の「影」である「亡霊のようなもの」にすぎないのかもしれないと、考えてみることは絶対にしないのです。そして、ここにおいても、イエスは別のことを知っています。そして、私たちが「生命」と呼んでいるこの「亡霊」のぞっとするような特徴を、私たちが直視することを助けようとしています。
だからこそ、彼は、私たちが真の自己を拒否して自我を選択することからもたらされる結果について、以下のように言及しているのです。
自分のアイデンティティーを拒否するなら、あなたは狂気を免れない。その狂気が引き起こしたものが、この奇妙で不自然な亡霊のごとき想念であり、神を嘲笑する、被造物の模造品である。自分のアイデンティティーを拒否するとき、あなたは、まるで敵の大部隊に立ち向かう一粒の塵のように、ひとりの友もなく単独で宇宙を攻撃している。自分のアイデンティティーを拒否するなら、あなたは邪悪さと罪と死を眺め、絶望が希望のかけらを一つ残らず奪い去っていくのを見て、ただ死にたいという望みとともに取り残されるだけである。 (W.191.3)
それでも、イエスは、私たちを自我の罠に嵌ったままにしておくことはしません。彼は私たちが幼い子供たちのようであることを認識しており、以下のように私たちを安心させてくれているのです。
子供たちは恐ろしい幽霊や怪物や魔物を知覚して、恐怖におびえる。だが、もし彼らが、信頼できる誰かに自分の知覚しているものの意味を尋ね、自分の解釈を手放して現実を受け入れようとするなら、彼らの恐れはその解釈と共に消え去る。子供が「幽霊」をカーテンに、 「怪物」を影に、 「魔物」 を夢に解釈し直せるよう助けてもらうとき、彼はもはや恐れることなく、自分自身の恐れを陽気に笑いとばす。
私の幼な子よ、あなたは兄弟たちと父と自分自身を恐れている。しかし、あなたは単に彼らについて欺かれているだけである。彼らが何であるかを、実相の教師に尋ねなさい。その教師の答えを聞けば、あなたも自分の恐れを笑いとばし、それらを平安へと置き換えるだろう。なぜなら、恐れは、実相の中ではなく、実相を理解しない子供たちの心の中にあるからである。彼らを怯えさせているのはただ彼らの理解の欠如だけである。そして彼らが真に 知覚することを学ぶとき、彼らは恐れなくなる。そしてそれゆえに、再び怯えたときにはまた真理を求めるようになる。あなたを怯えさせるのは、兄弟たちや父やあなた自身の実相ではない。あなたは彼らが何であるかを知らない。だから、彼らを幽霊や怪物や魔物として知覚する。何が彼らの実相であるか、それを知る存在に尋ねなさい。そうすれば、彼らが何であるかを教えてもらえるだろう。というのも、あなたは彼らを理解していないからである。そして、あなたは自分の見ているものによって欺かれているからこそ、恐れを一掃するために実相を必要としているのである。
求めさえすれば取り替えてもらえるというのなら、あなたは自分の恐れを真理へと取り替えたくはないだろうか。神があなたについて欺かれていないのなら、あなたはただ自分自身について欺かれることが可能なだけである。だが、あなたは自分についての真理を聖霊から学ぶことができる。聖霊は、神の一部であるあなたについて欺瞞は不可能だと、あなたに教えるだろう。欺瞞なしに自分自身を知覚するとき、あなたは自分で作り出した偽りの世界の代わりに、 実相世界を受け入れる。そしてそのとき、父はあなたのほうに身をかがめ、あなたをご自身のもとへと昇らせることにより、あなたのために最後の一歩を踏み出すだろう。 (T.11.VIII.13,14,15)
[2024年10月31日]