質問145:『奇跡講座』がもたらすトラウマとは?
『奇跡講座』の第一章の中で、初めの方の章を注意深く学習して周到な準備をしないと、学びの後半のいくつかの段階でトラウマ的な経験が生じることがある、ということが語られています。そして、それは、畏怖の念が恐れと混同されるからだと書かれています (T-1.VII.4,5)。このコースを学ぶことが、いったいどのようにして、トラウマ的な経験となりえるのですか?初めの方のいくつかの章と、後半の段階というのは、具体的にどの部分を指しているのですか?
回答
「テキスト」の中で、どの部分がここで言われている初めの方の章で、どの部分が後半の段階なのかということについては、具体的には明らかにされていません。けれども、ここでは、概して、霊性の学びの階段を上るにあたって、一番下の段と最上の段の間にあるいくつもの段を一つ一つ上ることなく、それらを飛び越して一気に一番上まで上がろうとはしないように、ということについて話しているのです。
多くの人々は手っ取り早い覚醒を求めています。ですから、自分の自我を直視するなどという、面白くもない不快な作業に取り組もうとはしません。聖霊ではなく自我を教師として選んだことによって、自分の生活がどのように導かれてきたのかを見極めたいなどとは、大多数の人々は思っていないのです。確かに、心の中に見えてくる有様は美しいものとは言えませんが、自我を直視して、「キリストとしての私たちの真のアイデンティティのかわりに、自我が差し出した特別な個人としてのアイデンティティを望んだとき、私は間違っていた」と、謙虚に認めることをしなければ、私たちは自我と、その憎悪や身勝手さを、真に超えていくことができません。
私たちは、どのようにしてそれを行うのかを学ばなければなりません。自我は、「神の愛の代替えを作り出した者は、処罰され、消滅させられることさえある」と警告しますが、私たちは、そのようなことは起こらないと教えるイエスの言葉への信頼を、少しずつ深めながら進んでいきます。私たちの人生と人間関係の目的を、自我の目的から聖霊の目的へとシフトさせることを、私たちは毎日練習しなければなりません。しかし、それを行うために必要なのは、私たちが自我にどれほど強い執着(時には、衝撃的なほどの執着)をもっているのかを見て理解することです。そして、自我の狂気である〈分離〉を、自分がどのようにして、ほとんど毎日、四六時中、顕在化させているのかということを、私たちは見なければなりません。
要するに、私たちはそのすべてを覆い隠してきたのです。なぜなら、もし自分に心があることを思い出して、そこに戻って、かつてそこで自分が何を選択したのかを直視したなら、言葉で言い表せないほどの恐ろしいことが起こると、私たちは確信してきたからです。そこに埋没されている恐れは、 もし神に直接近づこうものなら、間違いなく私たちを、身動きできないほどのパニックに陥れてしまうようなものです。 だから、神のもとに戻るには、間接的なアプローチが必要なのです。赦しを通して、そしてイエスまたは聖霊に頼ることを通して、間接的に神に近づいていくというアプローチです。「神とは誰なのか」、「神と一対一で向かい合ったなら、神は私たちに何をするのか」について、私たちが自分の心に教え込んだ妄想のすべてゆえに、このようなアプローチが必要となっているのです。
イエスはこの間接的なアプローチについては、「テキスト」第14章の「学びの条件」(T-14.I)というセクションで論じています。 そして、その前の第12章では、以下のように述べています。
真の心眼{ヴィジョン}を遮っているものに目を向けなければ、それらを退けることはできない。というのも、退けるとは、反対の判断をすることだからである。あなたが目を向けるなら、聖霊が判断する。そして聖霊は真に判断するだろう。だが、あなたが隠しておくものは、聖霊がそれを光で消し去ることはできない。というのも、あなたはそれを聖霊に差し出しておらず、聖霊はあなたからそれを取り上げることはできないからである。
したがって、私たちがこれから取り組むのは、あなたが望んでいない一切のものを聖霊に差し出す方法を習得するための、体系的で緻密な構成をもつ周到に計画されたプログラムである。聖霊は、あなたが望んでいないものをどう扱うべきかを知っている。あなたは、聖霊が知っていることをどのように使用すべきかを理解していない。神からのものでないものが聖霊に与えられれば、それは消えてしまう。だが、あなたは完全な意欲をもって自らそれを直視しなければならない。そうしなければ、聖霊の智識はあなたにとって役に立たないままとなるからである。助けることは聖霊の唯一の目的であるから、もちろん、聖霊があなたを助け損なうことはない。あなたにとっては、恐れの原因を直視してそれを永久に手放すことを恐れる理由よりも、自分が知覚している通りのこの世界を恐れるべき理由のほうが大きいのではないだろうか。 (T-12.II.9:6-8; 10)
これが、イエスが私たちに焦点を合わせてほしいと思っているプロセスです。「そのようなことに取り組む必要がないほど、自分はすでに霊的に進歩していて、助けなど必要ない」と考えて、そこをただ通り過ぎてまわないようにしてほしいと思っているのです。
[2025年1月31日]