質問146: 裁かないように努力すべきなのか?
「判断する / 価値判断を下す / 裁く」ということについて、質問があります。 以前のQ&Aの回答の中で、「このコースは、私たちに判断しないように求めているのではなく、判断してしまう自分自身に対する裁きも含めて、自分が価値判断を下しているときにそのことを認識するようにと勧めているだけである」と言われていました。 その文脈でそのように言われていた理由については、私も理解しているつもりです。つまり、自分が裁いてしまったときに、そのことについて自分を責めたり罪悪感を感じたりするべきではないということ、そして、その理由は、そうすることは自我を強化してしまうことになるからだ、という意味だと思っています。
けれども、その回答の前半には、もう少しよく理解したいと思う部分があります。 『奇跡講座』では、いくつかの箇所で「判断しないように」と具体的に求めているように見えます。例えば、 「教師のためのマニュアル」には、「彼はすべての判断を脇に置き、すべての状況で彼が望むものだけを求めることを学ばなければならない」(M-4.I.A.7:8)と、書かれています。また、同じく「マニュアル」の中に、「裁かない」という態度についての一節もあり、それは、 「神の教師は裁かない」(M-4.III.1:1)という言葉で始まります。
そこで質問なのですが、私は判断しない/裁かないように努力すべきなのでしょうか? それとも裁きの判断をしているときに、それをただ眺めることができるように努力するだけでいいのでしょうか? おそらく、正解は、「両方やってみること」となるのだろうと思っていますが、この疑問点について、何かもう少し別な角度から説明していただけないでしょうか?
回答
『奇跡講座』は、夢の外にある〈一なる子〉の心の一部から、〈分離〉の夢の中に居る私たちに与えられています。 そのカリキュラムが、私たちに「判断しないように」と教える必要があるのは、私たちがすでに、「分離の方が一体性よりも好ましい」という価値判断を下してしまっているからです。つまり、このカリキュラムは、「肉体と世界と同一化する」という私たちの決断を前提としているのです。
別のQ&Aからあなたが引用された箇所については、あなたが理解されている通りです。その要点は、もし私たちが「自分はすでに判断してしまったし、今でも毎日、一日中、多くの物事について判断し続けている」ということを否認している限り、判断しない(裁かない)ということを学ぶことは不可能だ、という意味です。 「神の教師は裁かない」という言葉は、「二分されてしまった心が行うべき唯一のことは、選択することであって、裁くことではない」という事実について言及しているのです。 このコースのゴールは、「私たちは”選択する心”であって、”判断する肉体”ではない」と教えることです。実は、「判断することはできない」と教えています。
これまであなたは、自分で判断することを控えるようにとたびたび勧められてきたが、その理由は、それがあなたにふさわしくない権利だからではない。あなたには判断するということができないからである。あなたにできることはただ、自我の判断を信じることだけだが、自我の判断はすべて間違っている。(W-pI.151.4:2-4、下線は回答者による)
したがって、「すべての価値判断を脇に置く」ことを学ぶというのは、「〈分離〉を選んだ」という心の選択の反映を、自我の価値判断の中に見ることを学ぶ、ということなのです。それは、自我の価値判断と格闘することではありませんし、ましてや、その価値判断が真実だと信じることでもありません。さらに言えば、自我の判断との闘いは、最初から負け戦{いくさ}になることは明らかです。 自我はいつでも価値判断を下すからです。 重要なのは、それが価値判断であるということと、それがどの目的に役立っているのかを認識すること、さらには、そうした価値判断は常に偽りであるということを覚えておくことです。そうした判断の唯一の有用性は、「心が〈分離〉を選択したので、赦しが必要である」ということを明らかにしてくれる、ということのみです。
私たちに求められているのは、価値判断と闘うことではありません。そのかわりに、あらゆる状況において、自我の価値判断を疑ってみること、そして、別の見方があるということを思い出して、それによって、それを「脇に置こう」という意欲をもちつつ、警戒している、ということです。
そうすることで、私たちは空白を作ることになり、そこで聖霊の知覚ですべてを解釈し直してもらえるようになるのです。そうすれば、あらゆることが、「自我の判断が唯一の選択肢ではない」と学べる教室となります。 しかも、自我の判断はすべてについて間違っています。 この教室で、〈神の教師〉は、価値判断を下すかわりに、「自我か聖霊かのどちらかを選ぶ」という選択をすることを学んでいくのです。
価値判断について意識することが、正しい方向への第一歩です。一方、価値判断をやめようとして格闘することは、このプロセス全体を妨害してしまいます。自我は、価値判断(裁き)の形で姿を現しますが、 〈神の教師〉は、価値判断を「心の選択の反映であると同時に、再び選び直す機会でもある」と捉えることによって、平常通りの思考パターンから離れます。このような意味において、〈神の教師〉は判断しない(M-4.III.1:1)と言えるのです。そのかわりに、選択する者となるのです。
[2025年2月20日]