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質問147:「奇跡衝動」とは何か

facim q&a

『奇跡講座』の第一章に、このように書かれています:

 

あなたの歪んだ知覚が奇跡衝動に分厚い覆いをかけており、それにより、その衝動があなた自身に自覚されにくくなっている。奇跡衝動を肉体レベルの衝動と混同することは、知覚の歪曲の主要なものである。肉体レベルの衝動は、間違った方向に向けられた奇跡衝動である。すべての真の楽しみは神の意志を行うことから生じる。その理由は、それを行わないことは自己の否定だからである。(T-1.VII.1:1-5)


この段落についての別のQ&Aを読んだことがあり、そこでは、性的衝動との関連での質問となっていましたが、私の質問は少し違っています。私は、上記の一節の中に出てくる「肉体レベルの衝動」というフレーズについて理解するのに少し助けが必要だと感じています。これは、〈決断の主体〉が常に〈正しい心〉と〈間違った心〉の間で、つまり聖霊と自我の間で選択している、ということの別の言い方だと考えていいでしょうか? もし「奇跡」とは、「赦し」であるのなら、または「肉眼が見ているもの(知覚しているもの)は虚偽だと思い出させるもの」であるのなら、「奇跡衝動」というのは、「私たちの心の中の聖霊から生じている訂正」のための思考プロセスの一部だということなのでしょうか?

 

回答

そうですね、あなたは正しく解釈されていると思います。それでも、なぜここで「肉体レベルの衝動」が「間違った方向に向けられた奇跡衝動」と呼ばれているのか、また、どのようにして「歪んだ知覚が奇跡衝動に分厚い覆いをかけている」のかについて明確に理解することは、あなたの助けになると思いますので、少し説明します。



私たちは、完全な喜びの中に永遠に存在し続けるものとして創造されました。ですから、分離した心は、自分の本性について間違ったことを信じているとはいえ、その幸せの状態を、間接的には覚えているのです。間接的というのは、主として、「自分は途方もなく不幸だ」という痛みのような感覚を通して、その幸せの不在を感じる、ということです。だから、私たちの本来の自然な在り方である平安と喜びの状態へ戻ることを、求めずにはいられないのです。



「奇跡衝動」、言い換えると「奇跡を選ぶ方向へ傾く傾向」は、「この分離のように見えている状態において、私は幸せではないし、私はこれより良いものを手に入れることができるはずだ」という認識によって動機づけられています。けれども、それ以上に、「奇跡」は、「私たちが感じている喪失感は自分で招いたものであり、自分の選択を反映している」という認識へと導いてくれるものです。「奇跡」とは、心に備わっている自然な傾向です。なぜなら、それは、すべての葛藤を捨て去って、心の本来の状態である全一性と平安へと心を戻すための一歩だからです。奇跡は、心は心であって肉体ではない、すなわち原因であって結果ではない(T-28.II.9:3)ということを、心に思い出させるものです。ですから、「奇跡衝動」というのは、〈訂正〉の想念のことなのです。それは私たちにとっては、〈正しい心〉の中で聖霊によって表現されていて、「愛からの分離が起こり、それに伴ってあらゆる苦痛や罪悪感が生じた」という私たちの考えは、実際には全く起こっていなかったということを、私たちに思い出させてくれるものです。そして、その認識が全面的に受け入れられたなら、それは、自我とその象徴的な表現の形である「個別の自己」というものを必ず消滅させることになるのです。

そういうわけですから、平安と喜びという自然な状態へ戻りたいという私たちの願望 ― すなわち「奇跡衝動」の動機となるもの ― を排除できない自我は、その衝動を歪めて、偽装させなければなりません。そうしておけば、自我は、私たちが自分の経験していることにおける自分の役割を思い出せないようにしておくことができます。というのも、もし本当に思い出したなら、私たちは長い間ずっと自我および分離と同一化したままでいることはしないからです。ですから、私たちが心を変えるのを防ぐために、自我は私たちに不幸な状態を否認するようには求めません。そのかわりに、歪んだ知覚のレンズを通して、 私たちの不幸は私たちが下した選択とは何の関係もなく、むしろ、自分ではコントロールできない世界に無力な肉体として生まれた結果であると、私たちを説得します。それゆえに自我は、私たちが不幸や葛藤を感じているということは認めますが、「喜びや平安や愛を見つけるためには、内側を見るのではなく、他者や世界といった外側を見るように」と、私たちを導くのです。

そして、そうした探求は必ず失敗に終わります。なぜなら、それが、私たちの真の本性や、真の幸福の源を否定しているからです。そうは言っても、私たちが間違って自分自身と同一視している肉体のために楽しみを求めるとき、その探求は、無意識にではあっても依然として「幸せが自然な状態である」ということの認識によって動機づけられているのです。これは、「奇跡衝動」を生じさせている認識と同じ認識なのですが、その探求は間違った方向へ向けられています。そして、この世界の中のあらゆる探求は、それが分離を信じる私たちの信念を強化させ、真の喜びを見出すことを可能にする唯一の自己認識を否定するので、最終的には、必ず苦痛という結果に終わります。だからこそ、「すべての真の楽しみは神の意志を行うことから生じる」(T-1, VII.1:4)という結論になるというわけなのです。

 [2025年3月31日] 

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