質問151 : 〈魔術〉を使うことについて
私は『奇跡講座』の学習者としては比較的初心者なのですが、疑問に思っていることがあります。それは、このコースの教えを私たちの日常生活に組み込もうとする前に、自我からの脅威に対処するために幻想の中で〈魔術〉を使う方が、コースの学習者たちにとって有益なのではないか、ということなのです。
もし、自己嫌悪感や破壊的行動といった問題に対処する際に、『奇跡講座』の理論では〈魔術〉と呼べるような普通の心理学を使って、私たちがこの幻想の世界の中で自分自身を十分に愛して赦すことのできるところまでたどり着いたなら、その時こそ、このコースを、幻想の中での助けとしてではなく、心を変える方法として捉え易くなるのではないでしょうか?
例えば、私は今、困難な状況の渦中にいて、うまく切り抜けられるように小さな奇跡が起こってほしいと願っています。もちろん私は『奇跡講座』は、この幻想の世界の状況を変えるためのものではないということは十分理解していますが、そのことが、私(自我)に孤独感と恐れを感じさせます。けれども、もし〈魔術〉を通して自分を受け入れて、愛して赦すことができるようになれば、その後で、『奇跡講座』が指し示している高い目的を目指すことが容易になると思うのです。
回答
〈魔術〉の使用は決して悪いことではありません。実際、「テキスト」では、心の中にある自我の力動に効果的に対処できないような状況に陥っているときには、〈魔術〉を使うことは賢明な選択であると言われています。
「この場合には、心身にとって妥協的な方法をとり、外界の何かに一時的に癒しの信念を付与することが賢明であるかもしれない。」(T.2.IV.4:6)
「贖罪の価値は、それが表現される様態にあるのではない。実際、それが真実に用いられるなら、必然的に、受け手にとって最も助けになるどんな方法ででも表現される。このことが意味しているのは、最大の効果をあげるには、奇跡は受け手が恐れをもたずに理解できる言語で表現されなければならない、ということである。」(T.2.IV.5:1,2,3)
ですから、激しい自己嫌悪から引き起こされる破壊的な行動パターンがあるような場合は、外からの助けを受け入れることが最も自分に優しく有益な接し方となる、ということも多いのです。そうは言っても、『奇跡講座』の学びから恩恵を受けられるようになる前に、必ずしも、あなたが「自分を愛して赦す」ということを完璧にできているレベルに達している必要はありません。「破壊的な行動」という要素が無いケースについて語っている場合でさえ、殆どの人々はそのレベルには達していません。
もしそのレベルに達している人達がいるなら、その人達に『奇跡講座』は必要ありません。このコースは、階段の一番上の段ではなく、一番下の段に居る人達を対象としているのです。この三部作の中の何十もの箇所で示されているように、イエスは明らかに、私たちが持ち合わせている惨めな自己イメージについてよく知っています。(例えば、 W-pI.93 や W-pI.191 を参照してください。)私たちが惨めでないということはありえないのです。私たちがどのような手段を用いて自分の存在を獲得したかを考えれば、これは当然のことです。私たちは完全無欠の愛と一体性を攻撃し、拒絶することによって、存在するようになったからです。
私たちが自分の行動を律することができるようになって、この世界の中で、ある程度までうまく機能することができるようになったなら、『奇跡講座』が私たちに役に立つようになりますが、それはどういうふうに役に立つのかと言うと、「自己嫌悪や罪悪感や裁きを徐々に減らして行けるような形で、自分自身や他の人々と関わる方法」や、「より多くの平安をもたらすような形で、人々との日常的なやりとりを進めていく方法」を教えてくれる、ということにおいてなのです。
このような意味において、『奇跡講座』は幻想の中で役に立つと言うことができます。幻想の中に根を下ろしている私たちが、そこから少しずつ抜け出せる方向へ進んでいくプロセスを、優しく始めるのを助けてくれるのです。
[2025年6月30日]