質問152: 悲観的すぎる教えを、どう学べばいいのか
『奇跡講座』によれば、「肉体」というものは、私たちの真のアイデンティティを攻撃して、それを別なものと入れ替えるために作られたもの、言い換えると、愛を制限するためのものである (T-18.VIII.1)とのことですが、そういうことであれば、私たちはこの地上で、いったい何をしているのですか?
このような考え方は、人間についての見解としては、信じられないくらい悲観的なものだと思います。もしここに肉体として生まれてきているということ自体が、お互いを攻撃し合っているという意味になるというのであれば、そもそも、私たちはなぜここに来るのでしょうか?
私はこのコースにはたくさんの素晴らしい論点や洞察があると思っていますが、それでも、あまりに文字通りに解釈されると、どんな霊的な教えでも根本主義的な理解となってしまい、個々人にとって、また人々の生活において、事実上、役に立たないものとなってしまうと思います。
私は何年もの間、数人の人々との険悪な関係の中に留まってきて、彼らの「無罪性」と、私自身と彼らの一体性を見ようと務めてきました。でも、つい最近、私は自分を傷つける人々からは離れようと決めました。(もはや、これが幻想だろうと何だろうと、どうでもいいと思っています。)そして、その結果、私は自分自身の中に途方もない力を感じ、人々に対しては赦しの気持ちを感じるようになったのです。
もしこのコースが、すべての人々に常識が備わっていると見なしているのなら、残念ながら、それは間違っています。 薬物依存者などがいる劣悪な家庭環境に生まれた人々の多くは、普通の良識を持ち合わせていないのです。そのような人々(私を含む)にとって、このコースのような書物を使うことは危険となりえると思います。もしイエスが本当にこのコースで私たちを癒そうとしていたのなら、なぜ彼は、喜びと苦痛の区別や罪悪感と愛の区別などについて理解できない人々がいるということを考慮しなかったのでしょうか。ましてや、痛みが幻想だと気づくことなど、彼らには到底できないということも・・・。
私は何年もの間、本気で、罪悪感を愛だと思っていました。そのように信じている人々に対して、『奇跡講座』をどう説明するのですか?
回答
書物の形で提供されている他の多くの教えと同様に、『奇跡講座』の学びにおいても、もちろん誤解や曲解や乱用などが起こりやすいことは確かです。そして、このコースの目的は、私たちの思考体系全体を完全に逆転させ、取り消し、別の思考体系と入れ替えることなのですから、尚更、誤解されやすいのです。私たちは皆、「それを理解したくない」という思いをなかなか手放そうとはしないからです。このコースを読む人がその教えの全容を理解していないなら、その中の文章は、いとも簡単に文脈から切り離され、誤解されてしまいます。このコースを学び始めて、その基本原理を実践してみようとする人々のほとんどが、まさにそのようなことを経験します。
『奇跡講座』自体は、「良識」について具体的には何も語っていないとはいえ、私たちの理解力や経験から学ぶ能力をあまり高く評価していないということは、明らかです(T-18.IV.7:5-6; 8:1)。なぜなら、私たちについて、「狂っている」と繰り返し述べているくらいだからです! (参照:T-4.III.10:3-4; T-10.V.10:4, T-13.in.1:7; T-14.I.2:6-7; T-14.XI.2:2; W-pI.53など)
イエスは、私たち全員が共有している混乱についてよく知っていますし、それらについて詳細に描写しています。例を挙げます:
痛みと喜びの混同について (例:T-7.X)
幽閉と自由の混同について (例:T-8.II)
罪悪感と愛の混同について(例:T-15.V.2-5; T-15.VII.2,7-10; T-15.X.5-6; T-15.XI.4; T-16.IV.3)
そして、教師としてのイエスの課題は、私たちがこれらのことを混同していると認識するのを助けることであると知っています。彼はまた、私たちが彼の言うことを受け入れることに大きな抵抗があることも、よく知っています (例: T-7.X.3-5; W-pI.44.5; M-5.II.1)。
最もよくある間違いは、このコースが「私たちはどのように行動すべきか」について教えているコースだと思ってしまうことです。ですから、もし、このコースがあなたに求めていることが、「虐待的な人間関係の中に留まって、相手の無罪性を認めて、その人と自分自身との一体性を見ること」だと、あなたが信じているのであれば、残念ながら、それこそが、この教えを学ぶ人々の中に最もよく見られる誤解の一つだということなのです。
このコースの主要なゴールは、私たちが自分自身の自我の想念を直視するのを助けることです。そして、私たちが関わる人間関係は、単にそれらの想念を見つけ出すために私たちを助ける手段にすぎません。そして、そうして見つかった自我の想念を直視することは、その切っ掛けとなった人間関係が、今も続いているか否かに関わらず、実践することができます。今その人と実際に会う機会があろうとなかろうと、その関係は心の中で続いているからです。私たちは、心の中に焦点を合わせるように導かれているのです。
このような「世界と肉体を作り出した自我の目的」に関する理論は、「赦しとは何か」を理解するために重要なものであるとはいえ、あなたがおっしゃる通り、極めて難しく、妥協のないものです。
それでも、このコースはまた、「私たちがここに来ること」についての別な目的についても教えてくれています。聖霊を教師とするなら、世界と肉体は、私たちのすべての特別な関係を通して、私たちが赦しのレッスンを学ぶための「教室」となることが可能になるのです。それにより、私たちが「害するために作ったもの」が聖霊により「癒すために用いられる」 (T-25.VI.4:1)ようになるのです。
そうは言っても、世界における「普遍なるコース」の現れ方の一つの特定の形としての『奇跡講座』に、すべての人々が惹かれるというわけではありません。これは、「幾千もの形態」の一つ (M-1.4:1-2)にすぎません。そして、もしあなたが、このコースの教えの要{かなめ}となる論点の一つを受け入れることができないのであれば、あなたにとって「もっと優しい旅路」と感じられるような別の道に導かれることになるでしょうから、安心していてください。どの道で学ぶかということは、誰でも自分自身の中の「内なる教師」と一緒に決めるべきことです。その教師は、私たち一人ひとりの心の中にある分離や苦痛の想念を癒すには、実際に何が必要かを知っています。ですから、あなたは自分自身に優しく接するようにしてください。私たちの苦痛や罪悪感が強化されてしまうようなことは、イエスが私たちに対して望むことではありません。彼のゴールはただ、私たちが最も安心できる形で、自分の苦痛を確実に和らげるような選択ができるように助けることだけなのです。
[2025年8月1日]