質問26: 天国の単一性と自我の単一性
『奇跡講座』の一元論的形而上理論の定義するところによれば、物理的宇宙とその中のすべてのものは幻想であり、「分化していない単一の天国」という真理に対する「防衛」であるとのことです。
けれども、もし物理的宇宙が「防衛」であって、天国の特質をどれ一つとして共有していないのだとしたら、物理学者たちが、「量子レベルではすべてのものが相互につながっている」と言っていることを、どのように説明したらいいのでしょうか?
これこそが、『奇跡講座』が定義している「天国」そのものなのではないでしょうか?
そして、それならば、実は「天国」はこの世界の中に存在している、ということになるのではないでしょうか? かなり目を凝らして見ないと目に入らないものだとしても・・・。
また、私の理解するところによれば、イエスは、彼または聖霊がこの幻想の世界を彼らの神聖な目的のために使用できると言っているように思えます。それにもかかわらず、本質的には、これらの「防衛」(物理的世界)は幻想であり、巨大な嘘であり、神が創造したままの真理とは何ら共通性をもたないものであるとのことです。
それでも、物理学者たちや何人ものニューエイジの教師たちは、私たちの表層意識のすぐ下には、「完璧な、希釈されていない単一性」が存在していると語っています!
このコースが言っているように、「小さな狂った考え」が、恐ろしい内的状態を偽装するために嘘の世界を投影したというのなら、なぜその中に真理の光が含まれていたのでしょうか?
回答
二つのことを覚えておかれるとよいと思います。
第一は、自我は一つであり、単一の統一された非実在の想念であるということです。見かけ上の分割や断片化を通して、その一つの想念に複雑さという偽装がどれほど施されたとしても、それはあくまでも一つの想念であり続けます。イエスは、「テキスト」の中の「実相の代替」というセクションで、この点について述べています。
神は恐れであると信じているあなたは、ただ一つの代替を作り出しただけである。それは数多くの形態をとるに至ったが、その理由は、それが真理を幻想に、全一性を断片化に入れ替えるという代用だったからである。それは分裂し、細分化し、さらなる分割を幾度となく繰り返してきたため、かつて単一であったし今も単一であると知覚することは、今ではほとんど不可能となっている。真理を幻想へ、無限を時間へ、生命{いのち}を死へと運んでしまったその一つの誤りだけが、あなたが犯した誤りのすべてであった。あなたの世界全体がその上に成り立っている。あなたが見ているすべてがそれを反映しており、あなたがこれまでに作り出してきた特別な関係のどれもがその一部である。(T-18.I.4)
ですから、複雑さというのは幻想なのです。そして、この広大な物理的宇宙と見えるものの中のあらゆるものが、「分離と罪悪感」という単一の想念に由来しているわけです。それを偽装しようとする自我による死に物狂いの努力にもかかわらず、その単純な起源を完全に隠蔽することはできません。そしてその起源とは、「分離は一度も起こってはいない」という〈贖罪〉の原理による単純な解決によって、いとも簡単に退けられるようなものです。
天国の単一性と自我の単一性の間の相違は、天国は真にひとつのものであるのに対し、自我は真に無であるという点です。けれども、私たちは、自我が無であると認識できるようになる前に、まず、自我が自らをその体現者であると主張している「罪と罪悪感」の想念を正視しなければなりません。
けれども、当然のことながら、「宇宙の根底をなすのは罪と罪悪感である」という説も、「無である」という説も、ほとんどの量子物理学者やニューエイジの人々が考慮の対象としているものではありません。
また、相互につながっているということが、天国を定義するものではありません。というのも、「相互につながり合っている」という概念は、依然として、「最終的には深いレベルでつながることもできる弁別可能な複数の部分」を想定しているからです。天国においては、弁別可能な複数の部分はありません。
覚えておくべき第二の点は、いわゆる物理的宇宙と呼ばれるものは、分離した心の内側に存在している、という点です。そして、真理の光、神の愛の記憶を保持しているのは分離した心であって、物理的宇宙ではありません。物理的宇宙というものは実在していないからです。そして、その心が、真の一体性の記憶を保有している〈正しい心〉である聖霊とつながったとき、心は自我の幻想をまったく違った光のもとに見ることができ、私たちの知覚にその幻想が押し付けようとしてきた、複雑さという偽装に邪魔されずに見ることができるようになります。
このコースが提供しているような、完全に自我の思考体系の外側から生じている視点がなければ、宇宙の中核にある意識の単純性が、それ自体で、実在のものであるかのように見えることでしょう。けれども、単一の自我の状態という意識を生じさせたのは、断片化が始まる前の、最初に眠りについたときの分離した心にほかなりません。(T-3.IV.2:1-2)
このコース以外のほとんどの霊性の教えは、意識を実在のものと見なしますが、意識には、知覚者と知覚されるものとがあるので、必然的に二元性を示唆しています。私たちが理解しているところでは、たとえば、ヒンドゥー教などのような霊性の伝統の中でも、最も上級レベルの教えのみが、意識さえも二元性の領域にとどまるものであり、究極には幻想でしかないと捉えています。