質問28: 抵抗感と、意欲のなさ - この違いは何か
抵抗感を正視してそれと戦わないということと、「意欲がない」ということとの間の違いは何でしょうか? 私はこのことについて少し混乱しています。
私はレッスンを行うことに対する抵抗感を正視した上で、何もしないでいるべきなのでしょうか? それとも、自分に意欲がないことを見てとり、それを克服すべきなのでしょうか?
私は自分が時折、他にやりたいことがあるために、レッスンを行うことに抵抗しているのを感じます。ですから自分が抵抗していることは認識しているのですが、それでも、これはやはり、私に意欲がないということになるのでしょうか?
回答
実践面から見るなら、抵抗感と意欲のなさは同じものです。どちらも自我の思考体系を維持し、心が聖霊を選ぶのを邪魔するものです。
重要なことは、抵抗感や意欲のなさを自覚して、その奥に愛に対する恐れが潜んでいることを確認すること、ただしその際にそうした自分自身を裁かないようにすることです。
私たちの恐れの奥深さを知っているイエスは、私たちからの抵抗を予測して「ワークブック」序文の中で次のような指示を与えています。
あなたが断固として抵抗するような概念もあるかもしれない。こうしたことは一切、何の問題にもならないし、その効力を減じることもない。・・・・・そうした概念にあなたがどう反応しようとも、とにかくそれらを使用することである。それ以上のことは何も要求されていない。 (W-in.9:2-5)
この一節に暗示されているのは「私たちは抵抗感に驚くべきではない、それと戦わず、それを裁かず、ただ指示された通りに練習しなさい」ということです。
練習を抜かすことは、「愛の現存についての自覚」(T-in.1:7)へと戻っていくのを遅らせ、単に時間を無駄にしているだけのことです。時間というものは、遅延のための戦術として作られたものですから、私たちには、自分で時間をかけようと選択しただけの時間があるのです。イエスは「教師のためのマニュアル」の中で次のように言っています。
だが、それもみな時間の問題である。誰もが最後には[贖罪を受け入れるようにという呼びかけに]応えることになる。(M-1.2:8-9)
私たちは、自分自身の経験に基づいて、「愛に抵抗することは非常に苦痛に満ちたことだ」と確信するようになったとき、次第に抵抗することをやめるようになっていきます。そうすると、抵抗感や意欲のなさは、意欲や動機へと入れ替わります。私たちは苦痛(自我)を手放して、平安(聖霊)を受け入れるようになっていきます。
そうなるまでの間は、抵抗感や意欲のなさについて、私たちが為すべき唯一のことは、それを否認したりそれと戦おうとしたりせずに、結果は確かだと知っている存在(T-4.II.5)がもつ忍耐力をもって、待つ、ということだけです。