質問31 : 「起こっていないことを赦す」とは?
最近、私の友人の一人が、私の気持ちを本当に傷つけるようなことをしました。それ以来、私は彼を赦そうと努力してきましたが、私にはその出来事を心の中から追い出すことができそうもありません。ですから、打開策として、「ワークブック」の中の「赦しとは何か」という言葉で始まる部分を読もうとしました。けれども、最初の文で行き詰まって、その先へ進めませんでした。「赦しは、兄弟から自分に為されたとあなたが思っていたことは、起こってはいなかったと認識する」という文です。
「起こってはいなかった」というのは何を意味しているのか、あるいは、「起こらなかったこと」というのは、何が起こらなかったという意味なのか、説明していただけますか?
回答
あなたとあなたの友人の間で形態において起こったことが何であれ、それは、実際に起こったことです。「ワークブック」は、夢の中における私たちの経験を否認するよう提唱しているのではありません。あなたの友人が何をしなかったのかと言えば、あなたの平安を奪い去ることや、あなたが抱いているような感情を引き起こすことをしなかった、ということです。
そうしたことは、「平安を選ばない」という心の中の選択の結果としてのみ生じ得ることです。そしてこの「平安を選ばない」という選択は、分離が実在するものだと信じることを選ぶことによって下されています。これはつまり、自我を教師として選ぶということであり、分離の夢の中で起こることについての自我による解釈を受け入れる、ということです。自我の思考体系に不可欠なのが、外的環境が内的葛藤の原因だという信念です。『奇跡講座』はこれを、〈魔術〉とか、「上下が転倒した考え方」と呼んでいます。
一方、奇跡とは、「外的なものは一切、私たちの平安にまったく影響を与えない」と認識することです。
このコースが掲げる目標の中で最も重要とまでは言いませんが、少なくとも非常に重要な目標の一つは、私たちには選択する力を備えた心がある、ということを教えることです。原因と結果の原理の基盤をなしているのが、この選択する力です。あなたが「ワークブック」から引用された一文は、このコースがその原理を教えるのに用いている多くのやり方のうちの一つです。
あなたは、兄弟があなたを傷つけたことによって、あなたを動揺させる原因となったと考えました。しかし、そういうことが起こったのではありません。起こったこととは、友人との外的な出来事より以前に、あなた自身が、心の中で自我と一体感をもつことを選択した、ということです。すなわち、「自分は、神に創造されたままのひとりの無垢なる神の子という霊としての存在ではなく、肉体の中に居る分離した個人だ」と信じることを選んだということです。実際、これがあなたが居たところです。
この選択をしたことにまつわる罪悪感が、対人関係や世界の中で遭遇するあらゆる不愉快な状況への反応という形で、心の外側に投影されるのです。
私たちが自我と一体感をもつことを通して、神の子としての私たちの真のアイデンティティーを攻撃するとき、私たちは、夢の中のあらゆる人、あらゆるものによって傷つけられる以外にありません。私たちは、文字通り「攻撃にさらされる」わけですが、それは私たち自身による攻撃です。イエスはこのことを「テキスト」の中で次のように述べています。
すべての攻撃は自己攻撃である。それ以外のものではあり得ない。本来のあなたとは違った者であろうという、あなた自身による決断から生じているため、それはあなたの自己認識に対する攻撃である。したがって、攻撃とはあなたの自己認識が失われる方法である。なぜなら、攻撃しているときは、あなたは本来の自分を忘れているに違いないからである。(T-10.II.5:1-4)
もし、心の中の選択が、私たちが感じることの原因であるのなら、私たちは心の外側の人々や環境の被害者ではあり得ませんし(W-pI.31)、外側の何かによって傷つくこともあり得ません。ですから、「赦すべきことは何もない。誰にも神の子を傷つけることはできない」(T-14.III.7:5-6)のです。
このプロセスを認識して、「自分が傷ついたことの真の原因は心にあったのであり、あなたの兄弟にはなかった」と理解しようとする意欲から、〈赦し〉が始まります。自分は決して傷つけられることはない、ということを受け入れることが、あなた自身とあなたの友人の両方に差し出されている、〈赦し〉の優しさです。