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質問39: 一元論の危険性 (防衛として使われる一元論)

facim q&a

私は、このコースの形而上学のもつ意味合いをはっきり理解したいと思っているのですが、気にかかっているのは、「真理に対極はない」というこのコースの主要な概念と、「この世界を助ける」ということとの関連についてです。

少なくとも東洋においては、「世界は実在しない」という考え方に基づいて、「世界に奉仕するなら、世界という幻想を実在のものと見なしてしまうことになる」ということで、人々は世俗から離れて、悟りを開いて覚者となったり、神秘的体験をしたりしてきたわけです。そうは言っても、一方では、(インドの古典の)バガヴァッド・ギーターなどの教えは必ずしもそういうものではありませんでした。聖書の方がギーターよりも、そうしたことを多く語ってはいますが、この世での奉仕活動そのものに愛着はもたないとしても、世界の中で奉仕することが神を愛することになる、という考え方もあったわけです・・・。

『奇跡講座』にも、そういう考え方はないのでしょうか? それがないと危険なのではないでしょうか?

 

回答

 

どんな一元論にも伴う危険は、人々がそういった思想を、自我に対処するのを避けるための防衛として使ってしまうことです。そして、もちろん、『奇跡講座』においても、そうした危険は大いにあると言えます。おそらく、これは、このコースを学ぶ人々が本当に脱線してしまう領域として深刻なものの一つだと言えるでしょう。

 

というのも、彼らは、「世界は幻想である」という考え方を、世界から逃避する方法として使ってしまうからです。

 

すでに見てきた通り、このコースの核心は、この世界の幻想性を背景としながらも、世界で起こっていることを否定しない、という点です。ただ、この世界で起こっていることについての自我の解釈を否定するだけです。

 

私がヘレンとビルの話をする時に、いつも強調する事柄の一つが、このコースは人里離れたどこかの修道院に住む神聖な修道女に口述されたわけではない、ということです。このコースは、お互いに反目し合っていた二人の心理学者に与えられたものでした。彼らは更に、同じように反目し合っていた同僚たちがいる医療センターで働いていました。そこは、おそらく自我の憎悪にあふれた思考体系を最も顕著に象徴する場所であったと言えますし、その医療センターの所在地ニューヨークも、おそらく、貪欲、競争意識、特別性、憎悪といったものを世界でも最も顕著に象徴する都市だと言えます。それが、このコースが生まれた飼葉桶となった場所だったのです。そして、この事実には、重要なメッセージが含まれていると私は思います。

 

ヘレンが『コース』を書き取っていた時期は、ヘレンとビルが医療センターで働いていた年月の中でも最も忙しくしていた時期に相当します。彼らは本当に忙しくしていました。ですから、彼らはものすごく忙しいスケジュールの中に何とかこのコースをはめ込まなくてはなりませんでした。『コース』がやってきたのは、彼らが暇をもてあましていて、『コース』の筆記に使える時間がたっぷりあるといった時期ではなかったのです。二人とも非常に忙しく様々な問題に取り組んでいましたし、数々の研究費の申請書や、学術機関誌用の原稿や、論文を書いていましたし、互いとのやりとりにも時間が必要でした。こうした状況だったということを理解しておくことは、〔このコースを理解する上でも〕常に役立つはずです。

 

とにかく、どの人の人生もそれぞれに違っているし、人々が抱える制約もまたそれぞれに違っているし、どの人の進む道も異なっていますから、この世俗の世界を離れるように導かれる人もいるかもしれません。しかし、そういったことは非常に稀なケースだと思います。一般的に言えば、このコースは、赦すことだけは別として、他には何も普通と違った生き方をしない人々のためのものです。

 

もう一点、私がいつも強調することですが、このコースは、決して宗教となることを目指していませんし、教会や、ましてや何らかのカルトとなることなど、全く意図していません。その唯一の意図は、個人のための一つの霊性の道となることだけです。だからこそ、この本の中には、勉強会などのグループについては、まったく何も書かれていませんし、教義の正式な指導形態などについてもまったく何も書かれていないのです。全く何もありません!

 

このコースは、唯一、あなたが聖霊との間に育む関わりと、あなたが自分のすべての<特別な関係>を、聖霊とのその関わりのもとへと持って行くことについて語っているのです。これは、個々人が、個々人の道として取り組むべき事柄です。このコースは宗教となることを意図してはいませんし、形態のレベルにおいて、あなたの生活全体を巻き込んでしまうことも意図してはいません。

 

非常にわずかな例外を除いて、一般的には、あなたはコースに出会った後も、形の上ではコースに出会う前と同じ人生を生きることになるはずです。違うのは、別の教師と共に、別の目的を持って生きるという点だけです。あなたの外見は他の人々と変わりありません。家族のもとを去ったりしませんし、仕事もやめません。いつでも瞑想していられるようにと、地球の反対側の砂漠に移り住むようなこともしません。そういったことがあるとしたら、それは極めて稀なケースです。

 

繰り返しますが、『奇跡講座』は、個人が霊的な学びを深めるための一つの道となるべきものです。それだけです。それを学ぶ人々を他の人々とは違う種類の人間にするコースではありません。このコースを学ぶ人々の間で様々なグループができたり、そうしたグループ同士が反目したり、あるいはコースを学んでいない人々のグループと対立したり、といった状況が作り出されるべきものではありません。あなたは、友人たちや家族から離れたり、あるいはまた自分の関心事などを断念するよう求められてはいません。形態のレベルにおいて、何も変わる必要はないのです。

 

『奇跡講座』を学ぶ人々が陥ってしまいがちな悪行の一つに次のようなことがあります。このせいで、私は、「このコースを学ぶ人々は地上で最も鼻持ちならない集団だ」とよく冗談を言うのですが、それは、このコースを学んでいることで自分たちが聖人のように霊的に進歩していて、形而上学的側面の理解において完璧であるかのようにふるまうために、人間的ではなくなり、常識を無視し、他の人々が話す言葉を話さなくなる、というものです。

 

きっと多くの皆さんも心当たりがあることと思いますが、これは、葬儀に列席する際に、顔に満面の笑みを浮かべ、手にはシャンペンを持ち、カラフルな衣服を着て行くような人々のことです。死とは実在しない「無」なのだから、人が死んでも実際には何も起こらなかったことを祝う、というわけです。人々が涙をこぼし、嘆き哀しんでいる時に、彼らは、形而上学的には何も起こっていないのだからと、幸せそうに微笑んでいるのです。彼らは、自分たちが愛し、助けたい相手であるはずの人々が話す言葉を話してはいません。まるで自分たちが全ての限界を超越したかのように振る舞っていますが、そのような行動に出るとしたら、彼らが何も超越していないことは明らかです。これは一つの事例にすぎませんが、残念ながら、こうした事例は他にも沢山あるのです。

 

だからこそ、私はこれまで何回も、「困っている時には、『奇跡講座』を学習中の人には相談しないほうがいい」と言わざるを得ない羽目に陥ってきたのです。なぜなら、彼らから得られるものは、お説教だけだからです。助けは得られません。盲腸が破裂しそうだという時に、病院の緊急治療室に連れて行ってもらえません。ワークブックのレッスン136「病気とは、真理に対抗する防衛である」を、面前に突きつけられるだけです。まったく笑い話みたいですが、残念ながら、これは本当のことなのです。

 

― 以上、FACIMのビデオ講座 Using Non Dualism as A Defense (ワークショップからの抜粋)より

 

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『奇跡講座』の卓越した形而上学的理論と洗練された心理学的洞察を抜きにすれば、このコースは「親切でありなさい」という簡潔なルールに要約できます。人々への思いやりがなければ、あなたはこのコースを実践していないだけでなく、まったく理解することさえできません。

 

- ケネス・ワプニック著、The Healing Power of Kindness より

 
 

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