質問43: 夢の終焉の時が「定められている」ということの意味
『奇跡講座』 ワークブックの中の非常に美しいレッスン、「レッスン122」に取り組んでいる時に、次のような一節が気になりました。
私たちは定められている夢の終焉のすぐ近くまで来ている。(W-pI.122.10:4)
この 「定められている」 という言葉の意味について解説をお願いします。
回答
この文脈で夢の終焉が「定められている」と言っているのは、夢が終わることは確実だからです。そして、実相においては、それはすでに終わっています。 「・・・・分離は一度も起こらなかった」(T-6.II.10:7) のですから。
誰でも、それぞれ準備ができたときに、このことを悟り、夢から覚めるのです。
ひとたびこの旅が始まればその終わりは確実だということを、忘れてはならない。途中で疑いが何度も去来するだろう。それでも旅が終わることは確かである。神から任せられたことを成し遂げられない者はいない。 (C-ep.1:1-4)
この「定められた」瞬間とは、夢の中の特定の時間のことを言っているのではなく、時空の外にある、心の中の決断のことを言っています。しかしながら、イエスは、私たちが「自分は実際に神から分離していて、時間と空間の中で生きている」と信じていることを知っていますから、夢の中で私たちが経験しているレベルで、私たちに語りかけてくれるのです。
彼は、このコースの中のあらゆるところで、「夢を終わらせるために必要なことは、私たちが自分で否認してきた真理を思い出し、それ以外のすべてを忘れることだけであり、そうすれば私たちは一瞬のうちに目覚める」 と教えています。
そしてこれが、夢の終焉が「近い」ということの理由です。それは、常に、ほんの一瞬先にあるのです。
けれども、分離を選択し続けている間は、私たちは、自分が選択したものを防衛するための遅延メカニズムとして、時間を使用します。 「時間は自我の概念であるから、遅延は自我からのものである」 (T-5.III.5:1)と述べられている通りです。
時間は、自我にとっては、自分で作り出した「罪と罪悪感と恐れの物語」を守るための最高の防衛の一つです。「過去において、神に対抗する選択をした」という恐ろしい「罪」のゆえに自分が神から罰せられる、という信念を防衛することができるのは、時間の中においてのみです。自我は、いつか神は私たちを捕まえるだろうと主張しています。
私たちはまた、救済を、自分の外側の、遠く離れた未来の一瞬へと投影するために、時間の概念を使用しています。というのも、それを今現在において受け入れることを怖がっているからです。ですから、「歳月は人を待たず」という諺とは逆に、実際には、時間は自我の指揮下にあるのです。神と私たちの一体性を受け入れること ー それが時間を終わらせることになるものですが ー を拒否するという自我の目的のために、私たちはいくらでも時間を使うことができます。
時間は、本当に、私たちが選択し直すまで待っています。私たちは、まさに自分の遅延策に役立たせるという目的のためにこそ、時間を作り出したからです。だからこそ、私たちの経験においては、夢は無限に続くように見えるのです。私たちは、二つに分裂した心の狂気ゆえに、時間が永遠に続くことを恐れていますが、同時にそれを望んでもいます。イエスは親切にも、時間は終わるだろうが、それは突如として終わるわけではないと述べて、私たちを安心させています。
自分が不意に引き上げられて実相の中に投げ込まれるのではないかと、恐れることはない。時間は親切なものである。実相のためにそれを使うなら、あなたが移行していく間、時間は優しくあなたに歩調を合わせてくれるだろう。(T-16.VI.8:1-2)
ですから、「定められている」という夢の終焉は、聖霊が私たちに教えている通りに確実であり、私たちがそれを望む度合いに比例して私たちの近くにあるのです。「テキスト」は、次のように教えています。
聖霊に使い方を任せるなら、時間はあなたの友である。 聖霊は、神の全一なる力をあなたに回復させるために、ほんのわずかな時間しか必要としない。あなたのために時間を超越する聖霊は、時間が何のためにあるのかを理解している。(T-15.I.15:1-3)
私たちが時間を自分の心の分離の想念を癒すために用い、すべての瞬間を、今現在において裁きではなく〈赦し〉を選ぶための機会であると見るとき、夢の中の時間の概念は聖霊の目的のために役立ちます。そうすると、過去の「罪」と未来の罰という考えは、私たちの旅路を遅らせる力をもたなくなり、真理を私たちの自覚へと近づけます。