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質問5: 自分自身を赦すということについて

facim q&a

人はどのようにして自分自身を赦すのでしょうか? 私には文通しているペンパルが一人いますが、その人は獄中にあり、『奇跡講座』を読み始めたのはまだ最近です。彼は自分のガールフレンドに暴力を振るった罪で服役中です。彼は、「いま他者を赦すことは学んでいるけれど、自分自身は赦せない」と言っています。彼女を傷つけたことについて自分自身に対し怒っているし恥じているのです。私は、彼の行なったことを、〈愛を求める呼びかけ〉であり、罰すべき罪ではなく「正されるべき誤り」であると捉えることができます。疑いもなく、彼は、加害者となってしまった被害者であり、いまだにその状態を繰り返し生き続けているのです。

私は彼に対し、それを手放すように、「兄弟よ、もう一度選び直しなさい」と言いたい気持ちです。けれども、果たして私はこのことを自分自身に言えるのだろうか、と思うのです。私は自分の人生の大半を憂鬱と向かい合いながら過ごしてきましたし、罪悪感はいつも私の隣に居る仲間のごとしです。私が何か間違ったことをしたとき、私の自我の譴責は、いたたまれないほどに激しく思えます。私には自分がいつ罪悪感を他者に投影するかがわかりますし、自分が他者を裁いているときに、自分自身を非難したり責め上げたりしても何の役にも立たない、ということも知っています。

けれども、もし私が誰かを何らかのやり方で、実際に傷つけてしまったとしたら、どうでしょうか? 私は色々とつぐないをして、前向きに生きようと努力することはできるかもしれませんが、私の自我はそんなに簡単に私をそこから解放してくれるとは思えません。私は、自我が命じるだけの期間、苦痛を体験し続けることによってのみ、自分を解放できるようになるという気がしています。

何か「別な道」があるに違いない、ということはわかっています。なぜ私は他者に対しては親切で、自分に対しては意地悪なのでしょうか? さらに悪いことには、私は罪悪感がもたらす苦痛から逃れたくて中毒性のものに頼ろうとしてしまい、そのあとでまた中毒に耽ったことについて罪悪感を感じるのです。私にはここから抜け出す道が必要です。私たちは、罪悪感を、他者だけでなく自分自身にも投影するということが可能なのでしょうか? なぜ自分自身を愛することができないか、なぜ時には自分自身を憎みさえするのか、いつかは私もその理由を理解するようになるだろう、ということはわかっています。私はまだ学んでいるところですから。それにしても、獄中に居る友人が彼自身を赦そうと努力しているように、私も自分の牢獄の中に居て自分自身を赦そうと努力しているというのは皮肉なことです。

 

回答

 私たちがだんだんと他の人々を「自分の罪悪感の投影」から解放することができるようになってくるにつれ、今度は自分自身が罪悪感で身動き取れない感じになる、といったことが起こるようです。イエスは私たちに、「外に向けられていた非難が撤回されると、それを内に抱え込んでしまう傾向が強い」(T-11.IV.4:5)と教えています。彼はさらに続けます。「内と外に区別はないがゆえにこれらはまったく同じことだと悟るのは、最初のうちは難しい」(4:6)と。そして、「非難は別のどこかに転嫁せずに、取り消されなければならない」(5:3)と言います。では、私たちはどのようにしてそれをするのでしょうか?

「人はどのようにして自分自身を赦すのでしょうか?」というあなたからの質問は良い質問ですが、実は間違った質問なのです。なぜなら、私たちは依然として、自我とあまりにも強い一体感をもっているために、自分で自分を赦すということ、少なくとも自分ひとりで(私たちが単独で、つまり自我の状態で)自分を赦すということはできないからです。だからこそ、私たちは、イエスまたは聖霊、あるいは、自分にとって違和感のない「愛と受容の象徴的存在」、裁くことなく自分と共に自分の「罪」を見てくれる象徴的存在を必要とするのです。罪悪感に依拠した私たちの思考体系の外側にあって、私たちの真の本性についての真理を知っている存在、いったんその罪悪感を白日の下にさらし、その目的とその代価を認識したなら、その罪悪感を引き渡すことのできる相手が必要なのです。

私たちは、自分たちが肉体であり、お互いに傷つけたり傷つけられたりすることが可能だと信じています。イエスは私たちが霊であり、攻撃する能力をもたない無罪の神の子であると知っています。私たちはそれを信じていませんし、実は、信じたいとも思っていません。なぜなら、私たちは、依然として、分離も、私たち自身の個人としての存在も実在するものであってほしいと思っているからです。ですから、〈赦し〉のプロセスには、自分自身の外側の誰か、もしくは何かとつながるということが、どうしても必要です。その誰かが、たとえば、分離も攻撃も罪悪感も実在していないと知っているイエスです。私たちは、もともとの成り立ちからして、自分ひとりでこのように認識することは不可能なのです。

あなたが体験しておられるように、自我は、犯した罪は苦しみと犠牲によってつぐなう必要があると、私たちに告げます。しかしそれでは、私たちの罪悪感には実在性があり、神とは、私たちのしっかりと実在する罪に対して復讐しようと待ち構える処罰の神である、と信じる私たちの信念を強めるばかりです。そういうことであれば、罪滅ぼしすることで解放されようとする私たちの試みはすべて、単なる〈魔術〉の様々な形態にすぎず、それは心の中にある真の問題に対処することのできないものだということになります。私たちが理解しなくてはならないことは、この世界で私たちが自分の罪のゆえに経験していると思い込んでいる罪悪感が問題なのではない、ということです。こうした「罪」は、実は故意に注意を逸らせるものであり、私たちの意識の焦点を、この世界の中に釘付けにしておくという目的のためにはたらくものです。それにより、私たちは、自分の罪悪感を除去する(例:つぐないなどをする)、あるいは、自分の罪悪感を体験するのを回避する(例:中毒性のものに頼る)、といった魔術的な解決法を求めることになります。

しかし、これらは、私たちの心の奥深くに視線を向け、私たちの(そして他のあらゆる人々の)すべての苦痛や罪悪感の発生源を正視することを妨げるだけのものです。その発生源とは、「私たち自身が愛に満ちた源から自らを切り離してしまったというだけでなく、私たちは自分が独立するためには神を殺し、愛を破壊してもかまわないと思ってきた」と信じる信念です。しかしながら、もし私たちがその愛を反映する存在、たとえばイエスや聖霊とつながり、彼らの愛に満ちた存在を傍らにしつつ、自分の自責感を正視するならば、やがて私たちも、自分が愛を破壊したことなどない、ということを何らかのレベルで認識せざるを得なくなります。そして、その認識の中で、真の〈赦し〉 ― もともと一度も起こったことはなかったとわかることによって赦す ― が可能となり、すべての罪悪感が溶け去り、自分自身を閉じ込めていた牢獄から私たちは解放されます。そうすると、もし何らかの行動や行為が必要な場合でも、この世界において私たちが他者に対して行なったいわゆる罪に対して、最も助けになり、最もよく癒すことのできる行為や行動が、私たちを通して自然に表現されていくことになるでしょう。

 

[2009年7月24日]

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