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質問57: 爆発した怒りについて

facim q&a

 

私は、最近の自分はかなり着実に 『奇跡講座』 を学んできたと思っていました。よく読み、考え、実践し、自分の否定的な考えを明らかにしてきました。ところが、ある日、(ワプニック先生が講義の録音テープの一つの中で説明しておられるシナリオそのままに) 自分の〈特別な関係〉の相手について、怒りが爆発してしまい、彼を非難することをどうしても止められなくなってしまったのです。

 

嵐がやってくるのを感じたとき、私が最初にやろうとしたことは、『奇跡講座』の「テキスト」か、ワークショップからのメモか何かを読むということでした。普通なら、そうしたことが落ち着きを取り戻すのに役立つからです。けれども、このときばかりは、それには効き目がありませんでした。ですから、私は開き直って、思いっきり怒りまくってしまいました! 

 

けれども奇妙なことに、その後、罪悪感はまったく感じられず、むしろ非常にほっとしました。自分が間違ったことをしたということはわかりますが、自分の間違いを「訂正する」とか、謝るといったことの必要がまったく感じられないのです。このような激しい怒りは、この相手と私の間の関係を完全に断ち切ってしまう可能性もあるとわかっています。けれども、そうしたすべての背後に、もう一つの考えがあります。

 

つまり、私は、自分の感情を「押し殺す」ことで、この人の中に私が知覚している間違いを超えていけるかのようなふりをしていたことに嫌気がさして、こんなふうに爆発しなければ気がすまなかった、ということなのです。こうした状況が自分をどこに導くことになるのか、私にはわかりません。私が百パーセント自我に支配されていたのではないことを願っているのですが・・・・。

 

 

回答

まず初めに、あなたが注目すると良いことは、「自分は百パーセント自我に支配されていたのではないか」 というあなた自身が抱いた懸念についてです。

 

〈赦し〉のプロセスの重要な部分は、自我を恐れなくなることを習得することであり、言い換えれば、それは、自分が自我の全面的な攻撃に身を任せたとしてもそれを恥じない、ということでもあります。私たちが学ぼうとしていることは、自我は本当に一つの 「小さな狂った想念」 にすぎないのに、私たちはそれを一笑に付すことを忘れてしまった、ということです。

 

ですから、自我の思うままに行動してしまったときに自分を裁くなら、私たちは、自我が実在していて、「小さな狂った想念」などではないということを、暗黙のうちに肯定していることになります。それよりもずっと癒しをもたらせるやり方は、その攻撃については、ただ、「私は攻撃した。これですごくスカッとした!」 と、正直に認めて、それ以上何も言い訳しないことです。

 

それが「間違い」であるというのは、単に、攻撃は決してあなたの心に平安を回復させてはくれず、あなたを神のもとへと連れ帰ってもくれない、という意味においてのみです。しかし、だからといってそれが罪深いということにはなりません。それはただ、自我の思い通りにさせるならどういうことになるかという、あなたが支払う代価について、あなたに教えるだけのものです。あなたが、もはやそのような代価は支払う価値がないと感じるようになったとき、あなたはものごとに対する別な対処の仕方ができるように助けを求めることになります。

 

このコースにおける進歩をはかる目安となるのは、あなたがいまだに自我の攻撃に見舞われることがあるかどうかという点ではなく、それを正当化するのをやめるということを思い出すまでにかかる時間がどれくらい縮まってきているかという点です。

 

自我と同一化するときはいつでも、私たちは意地悪くなったり、批判的になったり、恐れたりします。なぜなら、自我はいつでも変わらないからです。変わっていくのは、私たちが自我と共に過ごす時間の長さだけです。

 

二つ目の重要な点は、このコースの学びのプロセスは、赦すか、感情を押し殺すかのどちらかを選ぶことをあなたに強要しているのではない、ということです。

 

そうではなく、なぜ自分は攻撃するのか ― 自分の感情がどこからやってくるのか ― を学ぶことを、このコースは助けてくれます。

 

ですから、私たちは「ワークブック」の初めの方で、「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない」 (W-pI.5) と教えられます。このようなレッスンが練習させようとしているのが、私たちの否定的な想念や感情を正面から見据えること、そして、それらの源は、愛を拒絶してその責任を投影するという私たち自身の決断の中にあると認識すること、そして最後に、私たちが望むならば、その決断を変更するための助けを求める、ということです。

 

ですから、自分の感情を押し殺した上で、〈赦し〉を実践している寛大な人のようなふりをすることは、助けになりません。私たちの怒り、憎悪、嫉妬、恐れ、不安、そのほか諸々の、私たちの感じているものが、私たちのカリキュラムなのです。こうした感情は、私たちがどの教師を選んだかを示す指標であり、たいていの場合、私たちの心が下した決断を推量するための唯一の手がかりなのです。ですから、私たちは自分が経験しているものをはっきり意識している必要があります。そうでなければ、私たちの内なる教師には、教えるために使える教材が何もないことになります。内なる教師は、私たちが自我の暴発に襲われたとき、決して私たちを裁いたりはしません。だた、それらの背後にある自我の力動を私たちが認識することを学ぶように促すだけです。それにより、私たちがそれを訂正するのを助けられるようになるからです。

 

あなたの自我が退いているときなら、あなたは防衛することなく自分の〈特別な関係〉の相手に関われるはずです。 そのときあなたは、その人と自分の両方とも、同一の間違った心と、同一の〈正しい心〉と、同一の選択する能力を共有していることを体験します。その状態においてなら、怒りは不可能です。なぜなら、あなたにはその人の痛みの起源も、その癒しも、はっきりと見えて、それがあなた自身の痛みと癒しをも反映していることを理解するからです。

 

それが、このコースが私たちを助けて達成させようとしている心の状態です。それは自分の感情を押し殺すことではありません。それは、否定的な感情が決して生じてこなくなるような、自我から解放された状態を達成することです。私たちは、〈愛を求める呼びかけ〉と愛の表現のどちらかしか見ない聖霊の知覚 (T-12.I) を共有するようになるのです。

 

最後に、怒りは悪いものではありません。このコースは私たちに、「怒らないようにしなさい」と言ってはいません。それを正当化しないように、と教えているのです。これは重要な違いです。

 

 
 

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