質問65: 攻撃の想念の具体的な形
私が思いやりのない攻撃的な考えを抱いていて、すぐにはそれらに気づかないという場合、それらを聖霊に差し出し、浄化して再解釈してもらう前に、自分でこれらの考えについて詳しく思い出すということが必要なのでしょうか?
ほとんどの場合、私が自分の考えたことに思いやりがなかったと認識するのはあとになってからですし、そのときはもうその考えを具体的に思い出すことができません。ですから私は聖霊に、「これらの考えは、私の真の機能を私自身が受け入れるのを妨げているゴールを反映しています」とだけ言うことにしています。
このアプローチは、これまで、私が抱くほぼすべての利己的で自我に基づく考えに対処するにあたって、普遍化することのできる手法となってきました。このやり方で、そうした考えはみなすばやく過ぎ去っていくように思え、時には私はそのすべてをただひとまとめにして、聖霊に差し出しています。
この点について、何か助言をいただけますか?
回答
私たちの攻撃的想念が具体的にどんな形をとるかということは、最終的には、真に問題にはなりません。私たちの関心の対象は、それらの目的、つまりゴールです。そして、その目的は常に、私たち自身の罪悪感と分離の感覚を強めることにあります。ですから、私たちが認識すべきものとは、私たちの心の中にあるその目的であり、その目的遂行のために私たちが採用する特定の考えや言動ではありません。
そうは言っても、自分のレッスンがそこまで普遍化されたレベルに達することができるようになる前に、私たちにとって重要なことは、自我の判断はすべて同じだという認識へと導いてくれる具体的なステップを一つも抜かさずに進んでいく、ということです。
ですから、あなたにお勧めしたいのは、自分が具体的なことを思い出しづらいのは、そうした考えについての恐れや罪悪感の結果である可能性はないかどうか、自問してみることです。
つまり、それらの考えがあなたに告げていることは、こういうことではないかどうかを、自分自身にできる限り正直に尋ねてみることです。つまり、「それを見てはいけない! これらの裁きや攻撃の想念は、あまりに恐ろしくて直視することなどできない。ただ自分が罪を犯したことを受け入れ、そのようなものは聖霊に差し出すことにより削除してしまいなさい」ということなのではないか、ということです。
そうしたことは、このコースが私たちに行うよう求めていることではありません! (参照:T-13.III.1:1-2)
しかし、具体的な考えをあなたに自覚させなくしているのが、あなたの恐れであるかどうか、この問いに答えることができるのはあなただけです。
さて、もし本当にそれがあなたの恐れであった場合にはどうするかですが、それについては、深刻に悩まないことです。つまりあなたは恐れているわけですが、恐れていない人などいません。ですから、そのときにあなたのすべきことは、自分の自我を直視しようとする意欲を養っていくことだけです。
そして、多分、最初は、つい最近、自我がどのようにしてあなたを騙して窮地に陥れたかを思い出すことから始めるのがいいでしょう。練習を重ね、時が経つにつれ、あなたは自分が自我を選んでいるその最中に、その選択を認識できるようになってくることでしょう。
こうしたことの価値は、自分の自我と同一化することを選んだその瞬間に、自分には別の選択もできるということがわかるようになるということであり、それゆえに、自我との同一化がもたらす苦しみや痛みを長引かせる必要がなくなるということです。
ですから、自分自身に何かを強要したり、無理に思い出させるようなことはしないで、聖霊と共に自分の自我を直視しようというあの〈わずかな意欲〉を差し出してください。(T-12.II.10) そうすれば、いずれあなたには自我の虚無性が見えるようになります。