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質問69: 「私は何をする必要もない」ということについて

facim q&a

 私はもう幾度となく、「私は何をする必要もない」という態度を保つべきだと聞かされています。そして、それは、聖霊に任せることができるようにするためなのだろうと思っていますが、そういうことなら、私はベッドに横になったままで聖人になれるというのでしょうか。また、眠っている時しか私は役に立たないのでしょうか。

 

回答

「私は何をする必要もない」(T-18.VII)ということの主眼は、私たちが自分の思考のパターンを変えるのを助けることにあります。私たちは、事実上ほとんどいつでも、何が自分の問題なのかを知っていると思い込んでいて、だから、それらを自分自身で解決しようとしてしまいます。問題も解決法も、両方とも自分で定義しています。どのようにして自分を助けてくれるべきかを、私たちの方から聖霊に指示しているのです。

 

イエスのこの言葉は、私たちがもっと一貫して次のことを思い出せるようになるために自分の心を訓練し直すのを助けているのです。

 

すなわち、肉体やこの世界における問題のすべては、私たちの心の中の決断の主体である部分が、私たちの注意を「真の」問題から逸らしておくために作り上げたものだということを思い出す、ということです。そして、その「真の」問題とは、私たちがイエスまたは聖霊の代わりに自我を自分の教師にするという選択をしていることです。

 

こうしたことを一貫して思い出せるようになるという変化を達成するには、私たちがいったん立ち止まって、自分自身や自分の生活を別な見方で知覚するための助けを求めなければなりません。ですから、取り組むべき問題というものはもともと存在していないという意味で、「私は何をする必要もない」のです。

 

けれども、重要な点は、行動しないでいるべきだということではなく、私たちが行うすべての事柄の目的を、自我による目的から聖霊による目的へと変化させることにあります。私たちがすべきことは、自分の人生の新しい目的のことを考えられるように、自分を訓練することです。そしてその目的とは、どうすれば自分の利害を他のすべての人々の利害と同じものと知覚できるかを学ぶことです。つまり、自分が行うことの形態ではなく、内容に焦点を合わせる、ということです。

 

これを練習するための多くの機会が、人々との関わり合いの中から得られます。そして、そうした関わり合いは、自分が分離を取り消すことを選んだのか、それとも分離を強化することを選んだのかを、目前に映し出してくれます。ですから、人々との関わり合いや諸々の活動から身を引くことは、普通は、助けにはなりません。ただし、特定の人々やグループから一定期間、離れていることが必要になるといったことはありますし、同様に、薬物中毒になっている人などは、最初に行動面での変化を起こさなくてはならない、といったこともあるでしょう。ですから、「何もしない」ということはまた、自分ひとりでは何もしない〔*訳注〕、ということも意味しています。自分の問題についての自分の知覚が正確であると、反射的に想定してはいけない、ということです。

 

自分の正しい心の中の真理の反映と一体感をもっているときでも、あなたはこの世界の中で依然として非常に活動的であるということはあります。けれども、そのとき、もはや活動している主体として自分自身を経験することはなくなっているでしょう。あなたの正しい心の中にある愛が、あなたが行うことすべての源泉となり、その愛があなたを通して流れます。そしてあなたは、自我のレベルにおいても〈贖罪〉のレベルにおいても、誰もが同じだと経験することになります。

 

 

〔訳注〕 聖霊と共に行動するという意味において、「自分ひとりでは何もしない」ということ。


 

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