質問7: 自我はどのようにして生起したかについての質問
自我の起源をテーマとする以下のような質問がたくさん届いていますので、それらにまとめてお答えします。
ⅰ.天国や神の愛が完全に満足のいくものだったというのなら、なぜ神の子はそこから離れ去ったという夢を見ようとするのでしょうか?
ⅱ.神が完璧で統一されたものであるなら、そして、完璧で統一された子をもっているというのであれば、どうして、そうした心の中に、分離や分割といった不完全な想念が起こり得たのでしょうか?
ⅲ.いったん〈贖罪〉が受け入れられたとしても、再び、自我が選択されないということがどうしてわかるのですか?
ⅳ.どうすれば、『奇跡講座』が「自我のパラドックスを解決する」と述べているような「体験」をすることができるのでしょうか?
回答
質問として提示されている上記のⅰ、ⅱ、ⅲ などは、実際は「自我としての心」による声明であり、これは以下のように公言しているのです。すなわち、「私は自我が実在していると知っている。だから、どのようにしてそれが起こったかを、そしてまた、どうしてそれが再び起こらないとわかるのかを、私は今説明してもらいたい」という声明です。
この、「自我はどのようにして起こったか」という質問や、それが形を変えたすべての質問は、確かに、『奇跡講座』を学ぶ人々が最も頻繁に尋ねる質問です。これは、自分がどこから来たかを知りたがる自我にとってのみ自然な質問であり、それはちょうど、子供が両親に自分の起源を尋ねるようなものです。問題なのは、自我自体が自然なものではないということです。『奇跡講座』は、実相においては、自我は一度も生じてはいない、と教えています。ですから、『奇跡講座』という本の中に、自我の起源について知的に満足のいく答えを見つけ出せるはずがないのです。「どうしてそんな不可能なことが起こったのか」と尋ねる人々は、間違いなく自分のことを分離した個人的存在として識別していますし、この質問に答える人もまた、分離が本当に起こったということに同意することになります。さらに、分離は一度起こったとなれば、際限なく起こり得ることになりますし、ある意味では現実に際限なく起こっているとも言えます。来る日も来る日も、私たちには、自分の実相は自我であると信じるか、それとも神の子であると信じるか、という選択が差し出されているのです。ですから、分離が繰り返されるかどうかという疑問をもつことは、最初にそれが起こったと信じることで犯す間違いと同じ間違いを犯すことにほかなりません。『奇跡講座』は次のように言っています。
自我を定義して、それがどのようにして生じたのか説明してほしいと求める者は、自我が実在すると思っている者でしかあり得ない。そして彼は、定義することによって、自我をそのようなものに見せかける言葉の背後に、自我の幻想性を確実に隠蔽しておこうとする。嘘を真実にするのに役立つ嘘の定義などというものはない。
(C-2.2:5; 3:1)
自我は、このコースが与えない多くの答えを要求するだろう。質問の形をしているだけで答えることが不可能なものを、このコースは質問として認識しない。自我は、「どのようにして、不可能なことが起こったのか」、「不可能なことが、何に対して起こったのか」と尋ね、しかも、数多くの形で尋ねるかもしれない。だが、それには答えがない。ただ体験があるのみである。これだけを求めなさい。神学によって、あなたの歩みを遅らせてはならない。(C-in.4)
右記の引用箇所において『奇跡講座』が語っている体験とは神の愛のことです。この体験は、〈赦し〉のプロセスを通して、愛の臨在についての自覚を阻む障害物が取り除かれることで達成されます。(T-in.1:7)実際のところ、『奇跡講座』の目的は、私たちがこの体験を達成できるよう助けることにあるのです。
[2009年8月30日]