質問70: 聖霊に任せるのは現実逃避ではないのでしょうか?
『奇跡講座』は「テキスト」の中で、「神の計画を、自分が成就したい唯一の機能として受け入れたなら、あなたが努力せずとも聖霊が他のすべてを手配するだろう」(T-20.IV.8:4)と述べ、また別の場所では「あなたの必要は聖霊に任せておきなさい。聖霊は、それらに重きを置くことなく、供給してくれるだろう」(T-13.VII.13:1-2)と述べ、さらに「マニュアル」の中では「あなたが受け入れることのできる助けはすべて与えられ、あなたが必要としているものの一つでも満たされないものはない」(M-26.4:8)と述べています。
私はこれを、この世界に当てはめて理解しようとして苦心しています。具体的に言うと、顧客から電話がかかってくるという状況を作り出せず、自分が開催するワークショップへの参加申込を得られず、自分の本を買ってくれる人々がいないけれども、私にはもっと所得が必要だ、といった状況です。
ここで最も難しいのは、このコースの言葉によれば「何もしない」ことが必要だというところです。つまり、私の必要を聖霊に任せ、ただ赦すことと、心安らかでいたいという意欲をもつことだけにより、生活費をまかなっていけるだろうと信頼しなければならないというところです。しかも私の周囲が、一週間に四〇時間か、それ以上の間、あくせくと働いている何百人もの人々であふれているときに、です。私が瞑想し幸せでいる間に、ただ聖霊が私に顧客を送ってくれたり本を売ってくれたりして、私の必要を満たしてくれると思うのは、現実逃避ということにならないのでしょうか?
回答
そうしたやり方を教え、唱道する霊性の道もありますし、あなたが引用された言葉は、文字通りに受け取るなら、そうしたことを意味しているようにも見えますが、『奇跡講座』が教えていることはそうしたことではありません。
ここで鍵となる概念は、「形態」ではなく 「内容」に焦点を合わせる、ということです。それらの言葉の内容とは何かと言えば、私たちの心の中には愛情深く思いやりのある慰めに満ちた存在がいるのであって、諸々の宗教が私たちに教えてきたような懲罰的な 「神聖な審判者」 や、奇跡にふさわしい者たちだけにそれを授ける魔法使いマーリンのごとき存在がいるのではない、ということです。
「教師のためのマニュアル」の中の「用語の解説」末尾の聖霊についてのセクションは ― そしてまた、『奇跡講座』の中の他の何十もの箇所でも同様のことが述べられていますが ― 私たちがさらにもう一歩先まで進めるように助けてくれています。つまり、形態と内容を、すなわち経験と実相を、そして象徴と実相を、区別するようにと教えています。
〔聖霊が〕遠い国を旅するための導き手のように見えるのは、あなたがそのような形の助けを必要としているからである。聖霊は、あなたが自分に必要だと思っていることを満たすどんなものでもあるように見える。しかしあなたが自分自身を、本当は不要なものを必要と思い込む罠に陥った者として知覚するとき、聖霊はそれには騙されない。こうしたものから、聖霊はあなたを解放しようとする。こうしたものから、あなたを安全に守ろうとする。(C-6.4:6-10)
ですから、それは自分自身および自分の必要というものをどのように定義するかという問題なのです。
そして、もし私たちの出発点が、「自分は肉体として物理的な世界の中に真に存在している」ということであるなら、私たちは常に誤って導かれ、罠にはまってしまうことになります。けれども、もし私たちが、「自分の肉体としてののごとく見えるものは、霊としての真のアイデンティティーを覆い隠す目的をもった偽りのアイデンティティーだ」ということを思い出すなら、私たちの必要というものについても、違った定義をすることができます。
私たちは、「自分がもつ唯一にして本当の必要は、分離の夢から覚めて、天国に居る私たちの真の自己と再結合することであり、そのために必要な助けはすべて自分の内側に現存している」ということを認識します。そうすると、依然として自分がここに居ると信じている間は、〈赦し〉が私たちの唯一の意味のある機能となります。(T-25.VI.5:3) そしてまた、私たちが口にする唯一の有意義な祈りは、〈赦し〉を求める祈りとなります。なぜならば、イエスが教えているように、「赦された者は一切を有している」(T-3.V.6:3)からです。
ですから、聖霊の目的を受け入れるというのは、自分の人生のあらゆる局面を自分の〈教室〉と見なすということを意味しています。私たちはその〈教室〉の中で、「愛の現存についての自覚を遮断するために自分が何をしているのか」を識別できるようになるために学び、自分の教師に助けを求め、別の選択を下すことを学ぶことができます。聖霊の目的を共有することで、あなたは自分の人生における義務の一つひとつに責任をもって対処しつつ、同時に、あなたの中にある神の平安は外側で進行しているいかなる事柄にも決して影響されない、と学ぶのです。
日常生活のこまごまとしたことに対処することの中には、私たちにとって無数の学びの機会があります。それは、自分の人生の「形態」を超えたところにまで達し、私たち全員が同じ利害を共有しているということを学ぶ機会です。同じ利害とは、私たちの誰もが、自我の思考体系と、自分の〈正しい心〉の中にあるその訂正とを共有しているということです。これを学ぶことが私たちの特別な機能です。私たちがこのように自分の人生を設定したがゆえに、これが、私たちの心の中にある分離の思考体系を取り消すための、最も効果的なやり方なのです。そして分離の思考体系こそが、私たちのすべての惨めさや不幸の究極の原因です。
聖霊に対し、私たちの物理的/心理的な生活における問題について何とかしてほしいと求めることは、自分の不幸に対する自分の責任を放棄することです。そのようなことをするなら、私たちが自分の間違いを取り消せるようになるため、また、私たち自身でもあるキリストという栄光に満ちた自己と再結合するために、私たちがもっている唯一の手段を、自分自身から剥奪することになってしまいます。
小冊子『祈りの歌』、特にその最初のセクション「真の祈り」を参照されれば、さらに助けになるかもしれません。