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質問76: 「聖なる神の子よ、死すことを誓ってはならない!」 (T-29.VI.2:1)について

「テキスト」に出てくる「聖なる神の子よ、死すことを誓ってはならない!」(T-29.VI.2:1)という文言について、もう少し説明していただけますか? ある人が私に次のように言っていました。「それは、文字通り、私たちは死ぬ必要はないという意味だ。確かに死ぬことは死ぬけれども、従来の意味において死ななくてはならないのではない。単に、物質的な姿が消えてしまうことを、私たちは選択することができる」と。これは本当でしょうか?

 

また、肉体の死ということについて言えば、多くの覚醒した存在たちが — たとえば、イエスやガンディーなどといった、心に平安と愛だけを抱いていた人たちが — なぜ、暴力的な死に方を選ぶのでしょうか? 私は、心の中にあるものが世界に顕現されるということだと思っていました。彼らの死は、平安に満ちた逝去となるはずではないのでしょうか? これについては、「彼らは物理的な苦痛を感じてはいなかった」と論じることができるのだとは思いますが、彼らの生涯を見つめている他の者たちにとっての手本という観点から言えば、なぜ、「内側にあるものが、外側に現れる」ということを教えるべく、彼らが息を引き取る際には平安がみなぎるということにならないのでしょうか? その方が、彼らが生きたように生きたいと望んでいる兄弟たちにとっても、死に対する恐れが緩和されることになるのではないでしょうか?

 

回答

 

この一節(T-29.VI.2:1)が取り上げているのは、私たちが自我の思考体系と同一化したことによってすでに誓ってしまった「約束」のことです。私たちはすでに、自我の思考体系に忠誠を誓っています。その思考体系の中では死が — 私たち自身の死も含めて — 自我の現実の中心を成しています。私たちはすでに、「神の子は神が創造した通りのものではない」と信じるという誓いを立ててしまっているのです。つまり、「神の子は傷つかざるものではなく、父なる神の実存の内に永遠に存在するものでもない」と信じるということを、すでに誓っているのです。それは、私たちが自我と交わした取引の一部であり、自分だけの個別に切り離されたアイデンティティーを温存するために交わされたものです。

 

ですから、「死すことを誓ってはならない」 というのは、私たちにその取引を取り消すようにと求めている言葉なのです。物理的な死のプロセスについて語っているのではありません。聖霊が実相だと言っているものではなく、自我が、「実相」だと言っているものを支持しようとする私たちの決断について、語っているのです。

 

私たちは、いつでもあらゆる瞬間に、自我または聖霊のいずれかの思考体系と同一化するという選択をしています。ですから、その意味において、死というものも、私たちの心の中の他の想念と何ら違いはありません。死も、この二つの思考体系のどちらによってでも方向付けることのできるものです。私たちは、自我に導かれて死ぬか、聖霊に導かれて死ぬかを決められるという意味で、「どのように死ぬか」ということを自分で決めるのです。

 

『奇跡講座』がとりわけ強調していることは、どちらか一方の教師を選ぶための心の決断能力です。イエスの関心は常に、私たちの思考が彼の愛を閉め出しているか、受け入れているかという点のみにあります。私たちの霊的な進歩にとって、肉体の「死」の「形態」は問題にはなりません。私たちの心の「内容」が問題なのです。

 

目的や、「形態と内容」に焦点を当てることが、覚者と呼ばれているような人々の死に関するあなたの質問に答えるための助けにもなります。ほとんどの場合、私たちは人々の選択の背後にある理由を知りません。ですから、「形態」に基づくだけの判断をすることや、自分の目が見ているものを判断することについては、私たちはきわめて慎重にならなくてはなりません。「テキスト」第二十二章では、「形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない」 (T-22.III.6:7) と述べられています。

 

ですから、私たちには「暴力的」と見えていることが、彼らの心にはそのように経験されていないかもしれません。

 

たとえば、あなたが自分のことを犠牲者として経験しているときは、あなた自身が(決断の主体である心として)、世界の中で起きたことを解釈したのであり、その出来事または事件に対してあなた自身が一つの意味を与えたのです。イエスは自分が肉体ではないと知っていたので、両足に釘を打ち込まれたとしても、自分のことを誰かの残酷さの犠牲になった者として経験しなかったということになります。彼はもはや自我をもっていなかったので、傷つき得る脆弱な存在として自分を経験することなどあり得なかったのです。さらに、彼は、人々の怒りを超えたところに〈愛を求める呼びかけ〉を見ていたはずです。

 

ですから、私たちが「彼は暴力的な死を選んだ」と述べるのなら、それはすなわち、私たちにその出来事をそのように見る必要があるがゆえに、私たちがそのように解釈しようとしているのだと言えます。彼がそれをそのように経験したということではないのです。

 

「テキスト」第三章の「犠牲のない贖罪」や第六章の「十字架刑のメッセージ」も、このことについて教えています。

 

十字架刑にはまったく恐れのない肯定的解釈が成り立ち、したがって、正しく理解されるなら、それが教える内容においてまったく柔和なものである。十字架刑は極端な例以上のものではない。その価値は、他のあらゆる教育手段の場合と同様に、それがどのような種類の学びを容易にするかという点のみにある。それは誤解されることがあり得るし、実際に誤解されてきた。これは、単に、恐れる者は恐れを抱いて知覚しがちだからである。・・・・あなたには、そう選ぶなら、自分が迫害されたと知覚する自由がある。しかし、そのように反応しようと選択するときに思い出すとよいことは、私は世界が裁く通りに迫害されたが、自分のためにこの評価を共有しなかったということである。 (T-6.I.1:5; 2:1-4; 5:2-3)

 

最終的に、イエスは私たちに次のように求めることで、私たちが彼のレベルにまで上昇するのを助けようとしています。

 

私が無駄に死んだと教えてはならない。そうではなく、私があなたの中に生きていると示すことによって、私は死んでいないと教えなさい。 (T-11.VI.7:3-4) 

 

『奇跡講座』は、私たちが知覚しているものは「解釈」であることを、私たちが学べるように助けてくれます。そしてその「解釈」とは、自分の間違った心の中の罪悪感の投影を情報源としたものであるか、自分の正しい心の中にある愛に喚起されたものであるか、どちらか一つなのです。

 

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