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質問79: 「運命か、選択か」について

facim q&a

〔★この質問は、選択と運命というテーマについて寄せられた二つの質問を、一つにまとめたものです。〕

私の理解する限りでは、この分離という夢の中で私が真に選択できる事柄は、自分が置かれていると思っている一つ一つの状況において、「自我か聖霊かのどちらを自分の教師とするか」ということだけだ、と思えます。夢そのものについては、その台本は既に書かれていると教えられています。


けれどもよくわからないことがあります。私は、夢を見ている者として、そこに展開する具体的な出来事において、その夢を変化させることができるのでしょうか? 


それとも、私はその状況についての自分の捉え方においてのみ、夢を変化させることができるということなのでしょうか? 換言すれば、状況や対人関係などといった事柄については、私が経験しているすべては、あらかじめ決定されているのでしょうか?


もしそういうことであれば、昔の映画を見ている時のように、私は分離という昔の夢の中を歩いているということになりますね。つまり、私の結婚生活はいずれにしてもあれ以上は続かなかっただろうし、私には今いる子供以外には子供は持てなかっただろうし、私の現在の対人関係にしても、その継続時間その他の面でどうなるかは既に完全に定められている、ということになります。そしてさらに、私には聖霊を自分の教師に選ぶことにより「時間を短縮する」機会が与えられているとのことですから、それはただ筋書きの一部を抜かして進むことがゆるされているということを意味しているだけである・・・と、こういったことなのでしょうか?


けれども、このコースはまた、一つの非神聖な関係を、別な人とのもう一つの非神聖な関係に交換するのはやめなさい、とも勧めているように思えます。つまり、幸せを私たちの外側に探しても見つからない、だから、私たちの現在の対人関係を神聖なものにしなさい、と。これが示唆しているのは、「人生の筋書きや自分が出会う人々といった点においても、私たちには選択の自由がある、だから私の人生には幾通りものバージョンがある」ということのように思えます。例えば、ひとつのバージョンにおいては、短期間の結婚生活を、複数の人を相手として、二度ないしそれ以上繰り返すことになるが、もう一つのバージョンでは、長年の間、単一の結婚生活を続けることになる、といったようにです。 けれどもこのコースは、いかなることも偶然に任されてはおらず、全ての出会いは計画されたものであると言っています。


それとも、形態は問題ではなく、私は自分自身のイメージを彼らの上に投影し、ただその影を見ているだけ、ということなのでしょうか? けれども、そうだとすると、私の人生の台本が既に決定されているものだというのなら、なぜそれが他者の人生に対し、このように大きな影響を与えるように見えるのでしょうか?


『奇跡講座』はまた、私たちが目にしているのは、はじめに自分自身に下した価値判断であり、その外側に世界は存在しないとも言っています。これは、たとえばもし米国とイラクの間に戦争があるとしたら、私はそれを止めるために何かをすることができたということなのでしょうか? それともそれは既に起こった上で訂正されたことであって、もし私がまだ平安ではなく戦争を見ているとしたら、それが意味しているのは 「私は依然として間違った教師を選んでいる」 ということなのだから、私の心こそが訂正される必要がある、ということなのでしょうか? それとも、「その戦争を回避するために私には何もすることはできなかっただろうし、私にできることはただ、どちらの教師と一緒にその出来事を眺めることにするかを選択することだけであり、そして、もし私が聖霊を選ぶなら、私はどちらの側にも無垢だけを見ることになる」ということなのでしょうか?

 

【回答】

ここで尋ねられている全ての疑問点や問題に完全にお答えするには、一冊の本が書けるほどです。 (実際に、ケネス・ワプニック著 『A Vast Illusion — Time According to A Course in Miracles』 という本があり、ここで簡単にお答えするいくつかの点について、より詳しく検討するには、この本がお役に立つかもしれません。)  


『奇跡講座』は、私たちの唯一の本当の選択は、自我か聖霊かの選択であると、確かに述べています。そしてここで大切なのは、「本当の」という言葉です。


夢の中では、私たちが形態のレベルにおいて選ぶことのできる選択肢はほとんど無限にあります。ただし、自我はいかなるものも無限あるいは永遠のものにすることはできない (T-4.I.11:7) ので、これはあくまで「無限に近い数」という意味です。けれども、それらの奥にある内容はすべて同じく、罪と罪悪感と恐れです。だから、このコースは、「本当はどれもみな同じものに他ならない一群の選択肢から選ぶのであれば、そこに本当の選択はない」ということを強調しているのです。意味ある選択は、内容のレベルでしか下すことはできません。ですから真の選択は、自我の罪悪感と恐れを選ぶか、それとも聖霊の愛を選ぶか、だけなのです。


そしておっしゃる通り、私たちの人生には、自分の選択らしきものの結果として、出来事が起こるときに数多くの異なった形態や順序があるわけですが、私たちが自分の外側に自分の幸福が見つかると信じて自我とともに選択している限り、たとえ私たちの環境や対人関係などが大きく変化するように見えるとしても、実際には何も変化しません。


ところで、『奇跡講座』は実際のところ、ある関係を神聖にするために、その関係の中に物理的に居続けるようにと奨励してはいません。このコースは、私たちに対し、具体的なものごとについて、つまり形態のレベルにおいて助言を与えるということは、決してしないからです。


「兄弟を追い払う」(T-17.V.7:2)ということに関してこのコースが私たちに注意している時、それは、私たちが自分の心の中で兄弟をどう知覚するか、ということについて言っているのです。特に、私たちがある兄弟に対し特別な幻想を抱いてきたけれど、もはやそれらに関して幻滅している、といった場合などが、ここにあてはまります。


さて、『奇跡講座』はまた、あなたが指摘される通り、台本は既に書かれていて(W.pI.158.4:3)、時間の中にあるすべては既に起こったことであり、私たちの人生は、「旅の終わった時点からふりかえって、その旅を見ているだけであり、もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している」(W.pI.158.4:5)だけのものである、と言っています。そして、イエスは、いかなることも偶然に生じることはないと述べている一方で、あきらかに、私たちの人生の経験全般をもたらす選択についての責任は、私たち自身の心にあると言っています(T-21.II.3:1,2,3)。


しかしこれは、私たちの人生におけるあらゆる事柄があらかじめ定められているとか、出来事の起こる順序が決まっているといったことを意味しているのではありません。


私たちは常に、すでに起こったことである「起こり得る出来事」がずらりと並んでいる中から選択しているのです。けれども、私たちが選択している過去の出来事には独特の順序や厖大な数があるだけでなく、さらにそれに加えて、それらのどの出来事についてのどの記憶でも私たちが抑圧できるということや、「時間は実在しており、直線的に進む」と私たちが信じているということが組み合わさって、私たちの人生で起こっていることが新しい出来事であるという感覚が増幅されています。そして、このすべてが、自我の防衛の一部なのです。つまり、私たちが自分の人生の中で何か新しいことや意味のあることが起こっていると信じるように誘導するための防衛であり、それにより、この形態の世界で私たちの自我的な選択が今度こそ何とか良い結果を生むだろう、という愚かな希望が強化されているのです。


私たち一人ひとりの人生が相互に与えているかに見える影響について理解するには、一歩後ろに退いて世界という夢の外側から見る必要があり、すべての選択が真に下される場所である心へと、自分の注意を向けなければなりません。


時間の中で起こり得るほとんど無限に近い数の出来事のすべては、個別の人々や人生というものから成る世界の中への断片的な投影が起こったかに見えた時点よりも前に、一つの心(自我につながった集合的な心)によって、一瞬の内に描き出されたものです。


イエスはこれを、次のように説明しています。


「時間はあなたの心の中にほんの一瞬現れただけであり、永遠に対しては何の影響も与えていない。それゆえに、すべての時間は過ぎ去っており・・・・そのわずか一刻の間に最初の間違いが犯され、その一つの間違いの中ですべての間違いが犯された・・・・」 (T-26.V.3:3,4,5 下線はワプニックによる)


そうして今では、私の個人的な夢は分離していて、他の誰とも真に共有することはできなくなっています。しかし、全ての心はつながっているので、私が一個の肉体としてあなたと交流するために下す決断も、あなたが一個の肉体として私と交流するために下す決断も、常に、すでに起こった特定の出来事を時間と空間の中で再演するために、時間と空間の外側にある心のレベルで私たちが共に合意した事柄を、反映せざるを得ないのです。そしてこの共同の合意は、分離や、被害者を作り出すことという自我の目的を効果的に支援するためには、私たちの無意識の奥深くに埋めておかなければならないのです。


イエスは、互いに相手によって傷つくことについての私たちの合意という文脈で、この共同の決断について、次のように語っています。


「これが秘密の誓いであり、離れて歩んでいこうとする兄弟の一人ひとりとあなたが交わしたものである。・・・病気になるという誓約はどれもみな、意識においては明言されることも聞かれることもない。しかし、それは、互いに相手によって傷つけられ、その仕返しに相手を攻撃するという、他者との約束である。 病気とは、肉体が苦痛をこうむるようにと、肉体に向けられた怒りである。それは、あなたが他者から離れていようとするのと同じく、あなたから離れていることを望む他者の秘密の願望に同意して、秘密裏に交わされたものの明白な結果である。あなた方二人が共に、それが自分の願望であるということに同意しなければ、それはいかなる結果も生むことはできない。」(T-28.VI.4:3,6,7; 5:1,2,3)
互いに相手から影響を受けているかのように見えるようにする、というこの密かな合意が、実際に起こっていることであるに違いありません。そうでなければ、私たちはお互いの決断の被害者ということになってしまうからです。


けれども、この「形態に関する共同の合意」ということは、形而上的レベルにおいては真理であっても、実用的なレベルでは、以下の事実に焦点を合わせる方が、ずっと役に立ちます。すなわち、「この世界の中では、自分が一体感を抱いている肉体の自己としての私は、他者の行うことを制御することはできないが、それでも、自分の人生に起こっていることをどう知覚するかについては、常に自分で選択できる」という事実に焦点を合わせる、ということです。


私は、どちらの教師を招き入れることにするかを決めることができます。そして、聖霊が教えるように、自分の心の平安は自分の選択のみにかかっていると見ることにするか、それとも、「自分は被害者となり得るし、だから自分の感じることについて責任はない」という自我の教えを受け入れて、他者が私の心の平安を奪うことのできる力を持っていると見ることにするかを、決めることができます。
 
次に、「癒された心に戦争が見えるかどうか、そしてまた戦争に関して何らかの選択ができるのかどうか」というご質問について言えば、イエスは『奇跡講座』のかなりの部分を、自我の病んだ精神力動を指摘することに費やしていますから、彼が自我の葛藤を認識していることは明らかです。けれども、だからといって、それがイエスの心が癒されていないという意味にはなりません。


重要なことは、彼は私たちの自我の陰謀を明るみに出しながら私たちを裁いてはいないという点です。彼はすべてを愛の延長か、そうでなければ愛を呼び求める声だと捉えます(T-12.1.3:1,2,3,4)。私たちが自分の心の中でイエスとつながっているとき、私たちは、個人的なレベルの戦いであれ国際的なレベルの戦争であれ、この世界の戦いというものを、それと同じ観点から見ることになります。私たちは自分の目が見るものを否定しませんが、私たちの解釈は、この世界の解釈とは違ったものになるでしょう。病気についての文脈で、コースは次のように述べています。


「肉体の目は差異を見続けるだろう。しかし、自らに癒しを受け入れた心は、もはやそれらを認知しなくなる。その後も他の者よりも「病んでいる」ように見える者たちはいることだろう。そして、肉体の目は、以前と変わりなく彼らの外観の変化を報告するだろう。しかし、癒された心はそれらの外観をすべて同じ範疇に分類する。すなわち、それらは実在していないという範疇である。」
(M-8.6:1-4)


そして、この癒された知覚が生じ得るのは、心の外側に分離による罪悪感を投影する手段として葛藤や戦争に価値があると信じる信念を、私たちの心が手放した後のことです。


私たちは、この世界を加害者と被害者から成る世界と見る自我による知覚を強化するために、外界で戦争が繰り広げられているというような一つの集合的な夢に参加することに同意したという場合もあるでしょう。けれども、私たちはどの瞬間にでも、助けを求めることができます。つまり、まず、自我が戦争に与えている目的を認識し、それから、自分自身の心の中でそのような狂気を強化することはもはや望まないと決断することによって、助けを求められるのです。そして、私たちは、戦いのすべての陣営に無垢性を見られるようになる前に、まずはすべての陣営に狂気を見ることになります。それが、自分が自我と一体感をもっているときに他の全ての人々と共有している狂気と同じものであるということを、認識するのです。

  

[2014年6月01日]

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