質問99: 他者からの攻撃と自分自身による攻撃との関係
他人から不当な攻撃を受けたと私が思うとき、なぜ、それが、私自身も他人を攻撃したことになるのですか?
「テキスト」第12章についてのケネス先生の解説の中に、次のような一節があります。
「私は、あなたから私への攻撃に正当性はないと解釈しますが、その解釈が密かに意味しているのは、「私は心の中で最初にあなたを攻撃したのだから、あなたからの攻撃には正当性があるとわかっている」ということなのです。」
この精神力動について、説明していただけませんか?
回答
自我と同一化した心が外的状況に付与する解釈には、必然的に、その解釈とは反対の信念が伴われています。なぜなら、自我の思考体系は二元的な体系であり、反対のものがあるという信念に根ざしているからです。
私たちが意識的に経験するものは何であれ、「相対立するものから成る『全体』」の半分にすぎません。そしてその半分とは、自我が差異や攻撃を実在させようとして、投影によって切り離したものです。ですから私たちは、それら二つの半分が実際には同じものだということを認識していないのです。 (T-6.II.1-3; T-27.II.12-14)
この「投影」という精神力動によれば、私は、最初に自分自身の中に攻撃を見ていたのでなければ、あなたの中に攻撃を見ることはできない、ということになります。実は、形而上学的に言えば、あなたはただ、私の攻撃の想念の投影としてのみ、存在しているのです。それは、私が自分の攻撃の想念の責任を取らなくてすむようにするためです。
あなたからの攻撃には「正当性がない」と感じられるがゆえに私があなたに対して怒っているということ ― このこと自体が、「私自身が攻撃者であり、処罰や反撃を受けて当然だという、私の自己譴責にまつわる、無意識の罪悪感」に対する防衛であるにすぎません。
「あなたに対して私がとりわけ喧しく抗議する対象は、それが何であれ、必ず、私が自分自身について密かに信じていることの投影である」というところが、自我の思考体系の逆説的な特徴です。それは常にそうであり、例外はありません。(T-6.in.1) そして、これが、『奇跡講座』の中の妥協のない教えの一つであり、人々がこのコースを受け入れることをひどく難しくしているものです。仮に原則としては受け入れられても、実践においてはきわめて受け入れ難いものにしていることは確かです。
実際には、聖霊の視点からは、自我によるどちらの解釈も(あなたについての解釈も私自身についての解釈も)、真実ではありません。聖霊はどちらかの肩をもつことはせず、むしろ、まず最初に、どちらの半分も同じである ― つまり、私の兄弟と私はひとつである ― と認識できるように私たちを助けます。その後、聖霊は両方の解釈を虚偽として退けます。なぜなら、それらは、分離や差異や攻撃が実在するという偽りの前提に基づくものだからです。(T-5.VI.10; T-22.VI.12-13; T-27.II.15-16) 言い換えるなら、「攻撃する自我」を構成する「相対立するものから成る『全体』」そのものが、幻想だということです。ですから、どのように考えても、そこから実在するものや真実のものが生じることはあり得ないのです。