『奇跡講座』の学び方
・「必修科目ということの意味」
・「奇跡講座のイエスとは」
・ 学び方についての参考資料、その他
奇跡講座の学び方
「『奇跡講座』の教材を学んでいくための助けとなるような、何らかの指針やガイドラインといったものはありますか?」
「テキスト、ワークブック、マニュアルをどのようにして学んでいけば、最大の成果が得られるのでしょうか?」
―― こうした質問にお答えするために、ワプニック先生による講義の録音やFACIMサイトのQAなどから、関連箇所をいくつか抜粋し、このページにまとめてみました。
◆学習方法
まず最初に、『奇跡講座』の理論に即して言えば、このコースを学習するための最高の方法や唯一の方法といったものはありません。『奇跡講座』は、それぞれの受講生が、聖霊もしくは イエス という「内なる教師」の導きのもとに、各自で取り組んでいくカリキュラムです。「教師のためのマニュアル」が述べている通り、訓練は「個人に即したもの」(M-9.1:5; M-29.2:6)だからです。しかも、個々人の環境や経歴、能力、その他さまざまな要因には大きな差異があるわけですから、すべての人にお勧めできるような、厳密な指針や決まりといったものはありえません。
教材を読んで学習する順序に関しては、「テキスト」、「ワークブック」、「マニュアル」のどれを最初とすべきかという指示はありません。その決定は、受講生各自に任されています。これらの教材を学んでいくのに正しい順序や間違った順序といったものはないのです。
◆「テキスト」の重要性
ただし、この思考体系についての総合的な理解と、レッスンを実践するための堅固な基盤とを身につけるためには、受講生は各自の学びのプロセスのどこかの時点で、必ず「テキスト」を勉強するよう勧められています。
また、「テキスト」については、「注意深く勉強すべきだが、あまり急いで進まないように」という忠告もあります。それは、どうしようもない恐れの中に投げ込まれてしまうという不必要な事態を引き起こさないようにするためです。 (T-I.VII.4:5, および『奇跡講座入門』171-172ページ参照)。 また、「ワークブック序文」には、
「『テキスト』が提示しているような理論的基盤は、この『ワークブック』の演習に意義をもたせる枠組みとして必要なものである」(W.in.1:1)
と説明されています。
ですから明らかに、受講生たちが各自の学びのプロセスのどこかで、時間をかけて「テキスト」をしっかりと学ぶことが前提となっています。
◆ 「テキスト」は理論だけではない
「テキスト」も「ワークブック」も、それぞれ単独で存在するものではありません。両方が揃ってこそ、『奇跡講座』という霊的学びの道となります。「テキスト」を全く学習することなく「ワークブック」の演習を続けることは、何らかの効果がないわけではありませんが、『奇跡講座』が本当に何を教えているのかを理解するという観点からは、実際、間違った方向に導かれることにもなりかねません。
もちろん「テキスト」も、観念的な思考体系としての説明だけに焦点を当てて学ばれるなら、それだけで悟りへと導くものではありません。けれども、『奇跡講座』の「テキスト」というのは、理論を体系的に提示するためだけのいわゆる「教科書」ではありません。いくつもの主題とその変奏が繰り返される交響曲のような構成をもつ「テキスト」は、その理論や様々な概念を説明している最中にも、それを読む人をいざない、励まし、その人個人にとって意味のある形で講義内容を咀嚼させようとします。「テキスト」の中には、霊的な変容に向って心を開かせることのできるような、深遠で、含蓄が深く、感動的な文章がたくさんあります。
ですから、このコースの教えに共鳴する人々であれば、しばしば、自分が読んでいる文章の源である<愛に満ちた存在>に触れて、自分が変容するような体験をすることがあります。そうした瞬間の積み重ねが、たいていは、生涯つづくことになる一つのプロセスの始まりとなり、そのプロセスは、理論の実践と普遍化(=「ワークブック」序文で述べられている目標)を通して深まっていきます。
◆「ワークブック」に関する指示
ワークブックのレッスンのための唯一の具体的な指示は、序文の中に述べられています。「一日に一レッスン以上を行おうとしてはならない」(W.in.2:-6)というものです。
受講生は、レッスンを始める前にこの序文を読むべきですし、その後も時々読み返すとよいでしょう。
序文の中のもう一つの重要な原則は、受講生の心得に関するものです。
「ただ次のことだけを覚えていなさい。あなたはこれらの概念を信じる必要もなければ、受け入れる必要もなく、歓迎する必要さえもない。あなたが断固として抵抗するような概念もあるかもしれない。こうしたことは一切、何の問題にもならないし、その効力を減じることもない。しかし、『ワークブック』に含まれている概念を適用する際に、例外を設けてかまわないと思ってはならない。そうした概念にあなたがどう反応しようとも、とにかくそれらを使用することである。それ以上のことは何も要求されていない。」(W.in.9)
もし望むなら、同じレッスンを繰り返してもかまいません。それが、特に意味のあるレッスンであったり、難しいレッスンである場合は、2、3日ほど続けてそれをやるのも良いでしょう。しかし、一つのレッスンを完璧にこなせなければ次のレッスンに進むべきではないと考えることには、危険性があります。それは落とし穴になるということです。なぜなら、私たちのほとんどの者が、どのレッスンであれ、完璧に行えるということはありそうもないことだからです。もし、私たちが完璧にできるようであれば、私たちはすでに霊的に非常に進歩したレベルに達していて、そうしたレッスンを全く必要としないはずですから。
レッスンを数日間あるいは数週間も行わなかったときにはどうすればいいかということについては、レッスン95の中頃に書かれていることが助けになります。重要なことは、そういう時にレッスンをはじめから全部やり直す必要はないということです。レッスン95は、自我がこのプロセスにどのように忍び込んでくるのかを認識することに、焦点を当てています。そして「私たちの勤勉さが減退したり、毎日の主題概念の練習のための指示に従うことに失敗したり」(W.pI.95.8:3)することに対し、私たちは赦しをもって対応すべきであると教えています。これが鍵です。
『奇跡講座』の「内なる教師」は、私たちがその日の指示にどれほどきちんと従っているかをチェックしたりはしません。彼の唯一の関心事は、私たちが自分の心を訓練するのを助けることであり、それにより私たちが次第に、ものごとを赦しという観点から考えるようになっていき、最後には、学んだことを生活のすべての側面や経験へと普遍化できるようになることです。
要は、私たちが、ワークブックが教えていることを学んで実践しようとする試みにおいて、誠実になることです。そしてその間ずっと、私たちの誰もが強い抵抗感をもっているということを自覚し、不充分になりがちな自分の努力について、自分自身を赦そうという姿勢をもとうと意識しておく、ということです。
指示された通りにレッスンを学び続け、実践を続けていく限り、私たちは進歩していきます。形ではなく、内容に焦点を当てることが重要です。大切なのは、できる限り注意深く指示に従うために、真摯な努力をするということであり、うまくいかなかった時に自分自身を裁かない、ということです。実際のところ、これらのレッスンを行う目的は、レッスンをうまく行わなかった自分のそうした間違いを赦すことにあるとも言えます。それが、私たちが自分の創造主から分離してしまうという間違いを犯したことについて、自分自身を赦すという究極の赦しを反映するものとなるのです。
◆「マニュアル」について
三冊目の「教師のためのマニュアル」は、三部作の中では最もやさしく最も親しみやすい教材です。『奇跡講座』は、私たち全員が、お互いにとって教師であり生徒であるということ、そしてまた教師と生徒を分け隔てる境界線はないということを、私たちが認識できるように助けてくれます。私たちは自分が教える通りに学び、学ぶ通りに教えるのです。けれども、これは公教育の場とは関係のない話です。
この意味は、私たちは行動で示すことにより教える、ということです。『奇跡講座』は形(肉体のレベルのものごと)には決して関心を払わず、唯一、内容(心のレベルのこと)だけを関心の対象としています。
「マニュアル」は、質疑応答の形を取っており、質問は、『奇跡講座』の中に出てくる比較的重要なテーマのいくつかに関するものです。
「マニュアル」には付録があり、それは、ヘレン・シャックマンが『奇跡講座』が完成して2年ほど経ってから書き留めたものです。これは「用語の解説」と呼ばれていて、ある意味では、このコースの中で使われているキーワードについての解説のようなものであり、受講生のためにそれらの術語を定義し、多くの場合、すでに『奇跡講座』で述べられたことを詩的に要約したような文章となっています。
◆『奇跡講座』の〈形態〉と〈内容〉
『奇跡講座』は隠喩を用いて書かれていますから、形の上では、多くの矛盾した文言が見られます。ですから、このコースは、知性のレベルだけで読んで理解することはできないのです。『奇跡講座』の内容と、愛に満ちた赦しのメッセージは、このコースに反映されている真理に対して心を開こうという意欲をもつことによってのみ、理解できるものです。
「この世界は幻想であり、分離は一度も起こっていない」というこのコースの教え自体が、『奇跡講座』が形をもってこの世界に存在しているという事実そのものと矛盾しているように見えます。ですから、明らかに、このコースは最初から私たちに形を合わせてくれて、神の子の心の中の罪悪感にさいなまれている部分にとって助けになるような、愛のこもったやり方で始まっているわけです。
自我の論理によれば、分離の「罪」がもたらす罪悪感は、怒っている神からの処罰に対する途方もない恐れを生み出します。ところが『奇跡講座』には、「私たちがいないことで神は涙を流し、寂しく思っている」といったことが書かれていて、そこから伝わってくるのは、神は怒り狂って復讐しようとする神ではなく、私たちを愛してくれている存在である、ということです。こうした象徴的なイメージは、私たちの助けになります。私たちには、神の抽象的な性質よりも、「愛情深い父親」という概念の方が理解しやすいからです。
私たちは自分はこの世界の中にいると信じているので、このコースは、私たちが体験しているレベルで私たちに教えてくれるのです。私たちが理解できる形のコースとしてやってきて、数多くの隠喩や詩的なイメージや象徴などを使用しつつ、私たちが自ら否定して忘れてしまった愛のことを、私たちに語ってくれるのです。
◆「自我」について
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『奇跡講座』は、「自我」を、まるで、計画したり企んだり不安を感じたりする生き物であるかのように描写していますが、実際には、「自我」とは私たちの心の中の想念にすぎません。ですから、私たち自身が行なったり感じたりしていることを、「自我」という象徴で擬人化して描写しているだけなのです。「擬人的な自我」という象徴を用いて描写することによって、私たちがしていることについて客観的に語ることができるようになるので、このコースはそのような擬人的表現を用いています。
-- 『奇跡講座』は一つの「神話」であるとも言えます。「分離」について説明している神話です。そして、神話というものは、いくつもの象徴で構成されています。『奇跡講座』で使う主要な象徴は、「自我」と「聖霊」です。そして、両者はまるで人間であるかのように描写されています。しかし、私たちはただ象徴について語っているだけです。このような象徴や神話を使う目的というのは、私たちの中にあって私たち全員が共有している共通の心理プロセスに、私たちが触れることができるように助けることです。このプロセスを理解し、経験することによって、私たちはそれに対処することができるようになり、それを消してもらうために、聖霊の助けを、本当に助けになる形で求めることができるようになるのです。
◆形而上学的側面について
『奇跡講座』は、二つのレベルで書かれています。私たちはそれを便宜上、第一レベルと第二レベルと呼びます。第一レベルは形而上学的レベルです。そのレベルでは、「世界は存在しない」とか、「外界には誰も存在していない。すべては夢である」などといったことが語られます。第二レベルでは、私たちが自分が存在していると信じている場所、すなわち、他者から分離した肉体をもった個人として生きているレベルに合わせて語ってくれます。その第二レベルが、私たちが学びを始めるスタート地点です。そこから始めて進歩して行き、最後には、「赦すべき相手は存在していない」という第一レベルの理解に達するのです。
このコースを学ぶにあたって、その根底にある形而上学的原理を、最初から理解したり受け入れたりする必要はありません。最初はただ、自分の人生の中で何かがうまくいっていなくて、助けが必要だと気づくことだけで充分です。そして私たちに必要な助けというのは、私たちの生きている世界の思考体系の外側にいる存在からの助けです。このコースの枠組みにおける助けというのは、この世界とその思考の外にいるイエスまたは聖霊です。
そして大切なのは、必ず助けを求めることです。そうすることによって、喩えて言うなら、かすかに開いたドアの隙間にイエスが片足を踏み入れてくれて、再び閉じないようにしておいてくれることになります。そのあと、どれくらい速く、あるいはどれくらい広く、そのドアを開いてもらうかについては、各自が選択できます。そして実際のところ、どのようにドアを開いてもらいたいかは、「個人としての自己」を手放すことを私たちがどれくらい恐れているか、によって決まるのです。
とは言っても、決して急ぐ必要はありません。誰も私たちにプレッシャーをかけてはいません。
学びの途中から、このコースの形而上学が次第に、私たちにとって重要性を増していきます。けれども、学び始めるときから、常にそれを念頭に置いておく必要はありません。というのも、もしそうするなら、「この世界は幻想であって、自分は実在していないし、本当の神は自分のことを知ってさえいない」といった考えがもたらす恐れがあまりにも大きくなり、狼狽か反感を抱いてこの本を閉じてしまうことになるからです。
あるいは、もっと悪くすると、その恐れを抑圧してしまい、「世界が幻想で、自分もここにいないというのだから、私は何をやっても、何を言ってもかまわない。何人の人々を攻撃しようと、他の何を攻撃しようとかまわない」という態度をとることになりかねません。
そうなってしまうよりは、こうした考えが自分を恐れさせると素直に認めるほうが、ずっといいのです。そして、自分はまだそうした考えに向き合う準備ができていないと感じる、と認めるほうがいいのです。それによって、正直でいられますし、『奇跡講座』が教えていることを実際に歪曲して解釈してしまうのを未然に防ぐことができます。
◆形而上学的側面について(その2)
私たちの経験から言えば、人々が『奇跡講座』の全く妥協のない一元論的特徴に抵抗や恐れを感じることはよくあることです。そして、そのせいで、多くの人々はこのコースの教えていることを、無意識のうちに希釈解釈してしまい、『奇跡講座』が述べていないことを述べているということにしてしまいがちです。または、他の思考体系と『奇跡講座』を混ぜこぜにして学ぼうとしたりもします。しかし、このコースの本領は、一元論の形而上学を、この世界における生活の中に統合していくというやり方の中にあります。これはかなりむずかしい課題です。それでも、希釈されていない『奇跡講座』そのものが、私たちが天国の故郷に帰るために必要な支援のすべてを、私たちに提供してくれています。
◆心理学的側面 - 「無意識」という概念の重要性
このコースを学ぶにあたっては、少しでも心理学の予備知識があると非常に役に立つのですが、その理由は、心理学を学んだことのある人々は「無意識」というものについて実践的レベルでよく理解しており、その重要性に対して敬意を払っているからです。
心理学の優等生でなければ『奇跡講座』を学べないというわけではありませんが、「無意識」という概念自体は非常に重要です。それが物語っているのは、私たちの心の中には、私たちが意識していない部分があり、その部分が、私たちが意識的に望んでいることに逆らうことを選択している、ということです。ですから、フロイトが、「精神分析のゴールは、無意識を意識化することである」と言ったのと同じように、私たちは、「奇跡講座のゴールは、私たちの無意識の決断を意識化することである」と言うことができます。
そして、何かを無意識下に埋めてしまうのは、恐れです。何かを意識しないようにさせる原因は、恐れです。「自分の中に、非常に激しい不安を起こさせる何かがある、それは自分にあまりに大きな罪悪感を抱かせるので、自分はそれを見ないことにする。なぜなら、それを見ることは、自分をひどく嫌な気分にさせるからである・・」ということです。その時点で、私たちの恐れは、どこか別の方向に目を向けるようにと私たちに指示します。
これが、抑圧、あるいは、否認というものです。『奇跡講座』は、それがまさに、あなたの行なったことだということを、あなたに認識させます。それを認識しても、あなたはしばらくの間は、依然として自我を選び続けることをやめないかもしれません。それでも、少なくとも、自分で自我を選んでいるということだけは、わかるようになります。それが、非常に重要な第一歩なのです。
◆究極のゴールと、その前段階(実践的ゴール)
『奇跡講座』が何を達成しようとしているかということについては、いろいろな説明のしかたができますが、その一つは、私たちが「特別性に満ちた自我としての自己」ではなく、「神の子としての一なる自己」だということを、私たちに思い出させることである、と言うことができます。
ですから、このコースを学んでいくと、いずれは、確かに、「特別性の奴隷」である「個人としての私」は消え去ります。それを私たちは恐れているわけですが、自分が消えたままで終わるわけではありません。その後には、決して消え去ることのない「神の子としての一なる自己」が残ります。
しかし、そこに至るまでの過渡的ステップとして、<特別性>が消えても、まだ「個人としての私」は消えないという段階があります。まず、<特別性>が消えていくにつれて、それと同時に消えていくのは、不安や恐怖や憎悪や苦痛などです。そして、しばらくの間は、依然として「個人としての自己」という感覚は残ります。けれどもそれは、憎しみを抱いている自己ではありません。この夢の世界の中でも、自分が神の愛を反映できることを知っている個人としての自己です。
(JACIMによる註: このように、この世界に生きながらも、神の愛を反映できる個人の心の状態が、「実相世界」と呼ばれているもので、『奇跡講座』の学びが目指しているのは、この実相世界の達成です。これが、「このコースを学ぶための動機としてふさわしいのは、智識[すなわち、天国]ではなく、平安である」(T8.1:1-2)と述べられていることの意味です。けれども、実相世界に達した者は誰でも必ず智識に至る(T-18.IX.11)とも述べられており、その意味において、『奇跡講座』の究極のゴールは、この幻想の世界から完全に目覚めて、一なる自己としての自分を思い出すことだという言い方ができます。)
◆ 「啓示」について
「啓示」については、『奇跡講座』はあまり語っていません。「テキスト」の最初の方と、「ワークブック」の中でほんの少し言及されているだけです。
このコースで「啓示」があまり重視されていない理由は、それが心を変化させるものではないからです。「啓示」とは、喩えて言えば、標識のようなもので、高速道路をドライブしていて、道を間違えたかと不安になっているとき、目的地までの距離を示す標識を見つければ安心する、というのと同じです。
ある意味では、「啓示」を体験したなら、それは、『奇跡講座』の中の何かが確かに功を奏していて、自分が真理の方向へ向かっていると知らせている、ということは言えます。ただし、問題は、そのような体験をして、それがものすごいことであるかのように受けとめてしまい、みんなにその体験を語りたくてうずうずして、本を書いたり・・ということをし始めると、罠にはまってしまいます。なぜなら、このコースが主眼としている奇跡とは、あなたが自分と兄弟たちとの間に置いた防壁のすべてを取り去って、兄弟たちとつながることだからです。
神からの啓示や無我の境地だと感じられる体験から時として生じる問題は、そうした体験は非常に強烈なものなので、それに魅了されてしまって、自分の心に注意を払うのをやめてしまうことがある、ということです。そうした体験自体は確かなものだったとしても、その体験を理由にして、あなたは心に覆いをかけてしまい、罪悪感を取り消すための赦しの実践をやめてしまうということがあり得るのです。だから、このコースは、「啓示」については、ほんの少ししか語っていないのです。