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質問140: 苦しんでいる人に「何もしない」ということの意味は?

facim q&a

「真の共感」と「偽りの共感」について、二つ、質問があります。


『奇跡講座』が両者の違いをどのように定義しているかについては、理解していると思います。でも、私が理解できないのは、どうすれば、自我の罠に陥ることなく、人々に対して、慈悲深く親切でいることができるのか、というところです。

もう一つの疑問は、誰かが病気になったり、失業したり、最愛の人を亡くしたりしたときに、私の理解では、イエスは「何もしない」ように勧めていると思うのですが、そういう理解でいいのでしょうか? これは私には難しいことです。もし私が何かを言ったり行なったりするなら、それによって自我とつながることになる・・というのなら、これを別な見方で見るには、私はいったいどうしたらいいのでしょうか?


 
回答

真の共感は、〈正しい心〉から生じます。すなわち、あなたがイエスまたは聖霊につながっているときに生じる、という意味です。その瞬間においては、あなたは自我を超越しているので、あなたがすることはすべて、愛を反映するものとなります。〈聖なる瞬間〉においてイエスの愛とひとつになっているとき、あなたは自我の罠に嵌ることはありえません。なぜなら、「つながる」ということが、すなわち、「自我を選ばないという決断」そのものだからです。「つながっている」という状態と「自我」という状態は、互いに相容れないものです。そして、もちろん、たいていの場合、私たちは〈正しい心〉につながっても、すぐに〈間違った心〉に戻ってしまいます。「誤りが実在すると思い込む」という自我の罠に嵌ってしまうのです。


イエスが私たちに「何をする必要もない」と言うとき、その意味は、私たちが自分ひとりでは何もしないようにすべきだということなのです。消極性を勧めているのではありません。「イエスや聖霊の助けを求めなければ、私たちは、ほぼ間違いなく自我の罠に陥ってしまう」ということを教えているのです。そうなると、〈間違った心〉の中での私たちの知覚は、「相手は本当に可哀そうな被害者であり、その人に対する親切で思いやりのある行為というのは、その人の問題を解決するために助けの手を差し伸べて、その人の気分を良くしてあげることだ」というものになってしまいます。


そうした知覚では、私たちはその相手についての真実を完全に見失っているだけでなく、私たち自身についての真実をも見失っています。そのときの私たちは、自我の罠に落ちていて、相手のことも「心を忘れた存在」と見なしています。つまり、私たちはもはや自分自身や相手を心として認識していないということを意味します。私たちは心として、「キリストという私たちの真のアイデンティティを拒否する」ということを選択したのに、その後、その選択の責任を(心の外に)投影しているわけです。


〈間違った心〉の知覚は、常に、「被害者」と「加害者」を見ていて、心を見ていません。心は、間違った選択を逆転させる力をもっており、かつて退けた愛を自覚できるように再び受け入れる力をもっていますが、〈間違った心〉はそのことを知覚していません。


もし私が相手をそのように知覚しているのなら、たとえ外的な状況の問題を解決して、相手の気分を良くしたとしても、私は真の意味でその人を助けることはできません。実は、そのとき私は、その人を攻撃したことになるのです。なぜなら、そのときに私が発しているメッセージは、このようなものとなっているからです:「私は、あなたが持っていないものを持っています。そして、あなたは無力です。私はあなたと私を別個の存在と見なしていて、あなたの弱さに共感してきました。こうして、私は、あなたについてのイエスの見解ではなく、自我の見解を実証してきたのです」
 
このような誤った知覚は、助けを求めることによって訂正されます。イエスの眼差しを通して見ることができるようになるための助け、または、知覚を聖霊と共有することができるようになるための助けを求めるのです。そうして私たちは、「犠牲」という知覚を、イエスか聖霊のもとへと運ぶのです。なぜなら、もし私があなたを「被害者」と見ているのなら、癒しを必要としているのは私の方だからです。私が誰かの助けになるには、その前に、私の知覚が訂正されなければならないのです。


ここで忘れてならないのは、私たちは肉眼で見えるものについて話しているのではない、という点です。 客観的には、誰かが「職を失った」とか「最愛の人を亡くした」といったことは事実かもしれませんが、そこで「あの人は被害者だ」と結論するのは、一つの解釈にすぎません。私が間違っているのはその点においてです。ひとたび私がその人を「被害者」と知覚するなら、そこには「加害者」が存在しているという暗黙の了解があることになり、その人がその窮状の中に居るのはその人の責任ではないと言っているのと同じことになります。それこそが、私が陥ってしまった自我の罠なのです。私が最初に相手を被害者と見ていることに気づいたその時に、その場で立ち止まり、その状況を別な見方で見るための助けを求めるべきだったのです。その助けとは、相手の中にある自我の弱さではなく、その人の中にあるキリストの強さに共感できるようになるための助けです。 


もし私が〈間違った心〉から〈正しい心〉に移行するなら、私は自動的に、その状況において最も思いやりのある行動をとるように導かれるでしょう。それは何かをすることかもしれませんし、何もしないことかもしれません。何か言葉をかけてあげることかもしれませんし、黙っていることかもしれません。何であれ、最も助けになることが、自然に起こります。それは熟考の末に思いつく方策のようなものではありません。また、その後どういう結果になるのかについても、私には何の期待や思い入れもありません。

 

[2024年7月1日]

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