JQA #26: 「個別的な心」について
【質問】
『奇跡講座』では、この世界で普通に「心」と呼ばれているものとは頭脳のことであると説明されているようですが、私個人としての感覚では、心とは、頭脳を含めて自分の肉体がなくなってしまったとしても、あるいは世界もなくなったとしても、それでも残る「自分」という感覚、のように感じています。
言い換えれば、この世界では個別的に、自分や相手の区別がありますが、そうした別々のキャラクターがなくなっても、「自分自身」として感じられるもの、です。
このように感じられている「心」は、『奇跡講座』の思考体系では、どのようなものとして位置づけられるでしょうか?
赦しのステップに出てくる自己概念と何か関連があるかについても確認したいと思います。
【回答】
「心」というのは極めて抽象的な概念を表わす言葉ですから、時代、文化圏、思想などによって、その意味や定義はさまざまに異なっています。さらに厄介なことには、同義語とされている日本語の「心」と英語の “mind”という二つの単語でさえ、それぞれの表わしている意味は完全に一致していません。
ですから、「この世界で普通に “心”と呼ばれているものは、『奇跡講座』では “頭脳” のことを意味している」という説明は、英語の解説の中に出てくる説明であって、 それを「心」という言葉を使って日本語に訳した場合には、多少、ニュアンスが違っています。
FACIMのビデオV#25「心と頭脳」でも、「『奇跡講座』の “心”とは、世界で普通に考えられているような “頭脳”のことではない」という話が出てきますが、これは、もとは英語の mind という言葉について語られていることです。英語の mind という言葉は、日本語の「心」という言葉よりもずっと「頭脳」に近いニュアンスのある言葉なので、ここで、「『奇跡講座』の定義では mindは “頭脳” のことではない」と断っているわけです。
けれども、日本語では、もともと、「心は、(”頭脳”的な側面を含むかもしれないとしても)”頭脳”よりも広く深いもの」と感じられると思います。
日本語の「心」と英語の mind のニュアンスの違いについて、ここで仔細に考察することはできませんが、少なくとも、日本語の「心」という言葉は、英語の mind と heart の両方の意味を含んでいることは明らかです。(*邦訳『奇跡講座』における、mind と heart の訳し方に関しては、「この邦訳について」という説明文も参照してください。)
ですから、そういう意味では、英語の mind よりは、日本語の「心」の方が、『奇跡講座』の用語としての mind の概念に少し近いと言える側面があります。けれども、まったく同じではないので、やはり、既成概念を持ち込まずに、このコースで教えている通りのこのコース特有の「心」の意味をよく理解することが必要です。
そして、一般に「心」というものの定義や意味は多様であるとはいえ、『奇跡講座』に関する限り、「心」の意味として最も重要なのは、それが「選択をする」ということを行なっている部分であるということです。さらに、それはこの世界のレベルで生きていると思っている個人としての「自分」には、普段は意識されていないレベルの「選択」だという点です。
この「無意識の選択」という側面を表わす比喩として、V#25のケネス・ワプニック博士の講話の中では、「操り人形と人形遣い」の概念が使われています。
さらに、ここではもう少し微妙な側面を説明するために、もう一つ別の喩えを使ってみます。
ニューエイジ系の多くの教えで、「心を変えれば世界が変わる」、「思考を変えれば現実が変わる」というようなことがよく言われており、そのことが、「コンピューターのプログラムを取り替える」というような喩えを使って説明されることがあります。
これに対して、『奇跡講座』で「心を変える」というのは、「プログラムを取り替えること」ではなく、「プログラマーを取り替える」ということに相当します。同じプログラマーは、たくさんのプログラムを書くことができますが、いつも同じ傾向のプログラムしか書けないので、そのプログラマーを雇っている限り、同じ傾向のプログラムしか使うことができません。
ですから、このコースが「心」について説明するときに、主に述べているのは、二つの選択肢としての「二人のプログラマー」のそれぞれの特徴と、「どうすれば、新しいプログラマーを雇えるか」ということだけなのです。つまり、「プログラマーの変更ができる場」が、このコースでいう「心」である、ということです。(そして、このレベルの「心」が、「頭脳」を作り出していて、この世界の中では、私たちはその「頭脳」で考えていると思っています。)
このような観点から言えば、ご質問の中で述べておられるような定義の「心」(”頭脳を含めて自分の肉体がなくなってしまったとしても、あるいは世界もなくなったとしても、それでも残る「自分」という感覚” )が、以上の枠組みの中のどこに位置づけられるのかということは、容易には答えられません。この定義だけでは、回答のための決定的な決め手がないと感じられるからです。
ですから、推測に基づいてお答えすると、可能性としては2つあります。
もし、その感覚と共に、完全な平安と充足感を感じているなら、それは「正しい心」に触れている「自分」と言うことができると思います。
一方、もしも、そのような「物理的な世界が存在しない状態でもなお存在している自分」という感覚と一緒に、「物理的な存在ではないけれども”他者”と感じられる存在」が意識されていて、その「概念としての他者」と「自分」との間にも何らかの相互関係があると感じられている状態であれば、それは、「間違った心」の状態にある「自分」と言えると思います。
そして、「赦しのプロセスに出てくる自己概念」との関連で言えば、これは、「間違った心」の中の自己概念AかBのどちらでもあり得ると思います。(けれども、自己概念A,B、Cというのは、自我の力動の説明の中で出てくるものですから、そうした概念に触れていない「心」の定義について、それが厳密にAかBかどちらかというようなことは、答えられません。)
ただし、ここで覚えておいていただきたいことは、その「自分」が「間違った心」の状態にあるからと言って、それが良くないことだと考える必要はない、という点です。「自我」というものを、私たちは何か「悪いもの」と捉えがちですが、その中には、私たちの普通の考え方で「良いもの」と思われるものも含まれています。なぜなら、「自分」という意識そのものが、「正しい心」に触れている状態にいない限り、まるごと「自我」だからです。(そういう意味で、JACIMでは、 ego を「エゴ」と訳してはいません。「エゴ」と訳すと、どうしても、「自分の中の悪い側面」という認識になってしまい、「良いもの」と感じられるものならば egoではないと捉えられて、その隠れ蓑の中で自我が温存されることになりやすいからです。)
「自我」という概念がどれくらい広範囲に及ぶものかについては、本館のFACIM Q&A #26 「天国の単一性と自我の単一性」も参照してください。
[2018年4月8日]