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JQA #27: 人生の中の「対象」ということ(または、「何を癒すのか」)について

jacim q&a

【質問】

わたしは、いわゆる「医療人(医学を専門職)」として今回の人生を歩んでおります。医療(医学)という職業は、「治療する側」と「治療を受ける側」という自他(自分がいて、他者がいる)という関係性の中でそれぞれの生き方があるかのように思われます。


癒す対象は、「自分以外の他者」であるかのような職業といえるかもしれません。他者(患者さま)の症状の変化に 一喜一憂しながら「症状が改善すれば、自分の喜び」となり「症状の改善が見られなければ、自分を責める(攻める)」ことになったり・・・


ただ、最近は奇跡講座を自学自習するにつれ医療(医学)の世界だけでなく、どのような世界(職業)であっても治療(癒し)の対象はわたし自身の内面の平安であるのではないか、という気持ちが して来ています。


治療者として「病気に向けている」気持ちや「患者さまに向けている」気持ちよりも、「この病気を治せない自分」を責める(攻める)気持ち、「自分に対しての 罪悪感」を 対象として赦すことが 大切なような気がしています。


「病(やまい)を 病(やまい)として 実在させている」わたし自身の内面を 手放すことがまずは、大切なような気がしています。


この世界にはさまざまな 「病気」という 物理的に改善したい(そして、改善してあげたい)という問題(?)があるようです。病気に対して「治療者が どう 病(やまい)を対象とすべきか」ご教示いただけましたら 幸いです。


また、病気に限らず、「他人さまが、困っている状況に接したとき」にその瞬間 瞬間に「どう 接して あげたら 癒しに つながるの?」というふうに、お相手さまが 対象ではなくて、やっぱり「癒しの 対象は 自分自身?」なんですよね(^o^)という質問です。


 
【回答】


おっしゃる通り、『奇跡講座』で語られている「癒し」というのは、常に、“自分自身の心” の癒しに焦点を当てています。


このことは、『奇跡講座』三部作からも明らかですが、補助教材として口述された小冊子「精神療法」の中では、特に、「癒し」や「治療」を職業とするセラピストについて語る文脈において、この点が明確にされています。


セラピストは、自分自身の中でまだ赦していないすべてを患者の中に見る。そして、それにより、それらを直視する新たな機会を与えられ、それらを再評価し赦すことが可能になる。(P-2.IV.6:3)


セラピストを訪れる患者の一人ひとりが、セラピストに自分自身を癒す機会を差し出している。それゆえに、患者はセラピストのセラピストである。そして、どのセラピストも、自分のもとへやってくる患者の一人ひとりから、癒すことを学ばねばならない。そのようにして、セラピストは患者の患者となる。(P-2.VII.1:7-10)


このように、セラピストが患者を治療するはずのセラピーの場においても、「セラピストが癒される」ということについて語られているのです。


普通に考えると、『奇跡講座』の付録として「精神療法」という小冊子が提供されているのなら、その内容は、セラピストが『奇跡講座』の原則を自らの仕事に採り入れて他者を癒す方法を教えてくれているのだろうと期待しがちですが、そのような内容となってはいません。その理由は、このコースが、あくまでも原因についてのコースであって、結果についてのコースではないからです。


この小冊子のように、「精神療法」という一見「心の中」の癒しについて扱っている場合でも、もし「他者の心を癒す」という話をするのなら、それは依然として、セラピスト自身の心が作り出した結果である世界の一部を変えようとしていることになりますから、真の原因のレベルでの癒しについて語っているのではないことになります。


無数の他者が存在する世界を作り出したのは心であり、その心の中で、「自分」と「他者」という「分離」があると信じられていることこそが究極の「病」であり、それが癒されなければならないのです。


そういう意味で、社会の中での役割が「他者を癒すこと」であるセラピストや医師の場合であっても、その「治療」の場で真の癒しが起こるためには、治療者自身の心が癒されなければならない、ということなのです。


ですから、「癒す対象」ということで言えば、すでにご質問の中で述べておられる通り、癒される必要があるのは、自分自身の心の中の罪悪感です。


そして、誰にとっても、”自分自身の罪悪感” が癒されていけば、「究極的には自分と他者は同じなので、自分を癒すことは他者を癒すことでもある」ということがわかるようになります。それが真の癒しです。


具体的には、医療に携わる人々にとっては、通常の治療を行いながら、そこで出会う患者さんたちの中に見るものを、治療者自身の心の中にあるものの投影であると認識することによって、治療者が自分自身を癒す機会とすることができる、ということです。


患者は、セラピストの罪が投影されるスクリーンであり、その罪をセラピストが手放すことを可能にする。(P-2.IV.6:6) 


これは結局のところ、医療の分野に限らず、他のどのような人間関係にも同じく当てはまる赦しのプロセスではあります。


けれども、医療の分野で治療に携わっている人々が特に注意すべきことがあるとすれば、それは、「自分は治療に関する特別な知識や技能を持っている者であり、それを用いて、自分が他者を癒している」という考え方に陥りやすいということです。(というよりも、むしろ、真の癒しを経験していない「癒されていないヒーラー」は必ず、そのような考え方をしています。)その場合、他者の治癒の責任を自分が負うことになり、他者の症状の変化に一喜一憂しなければならなくなります。他者の病が治ればそれが自分の手柄となり、他者を癒せなければ自分を責めることになります。そうすると、「自分と他者は異なっている」という「分離」の知覚が強化されてしまい、自分自身の癒しも不可能となってしまいます。


この点について、「精神療法」の中では、真の癒しのためには「セラピストが自分自身を神と混同してはいけない」という言葉で説明されています。少し長めですが、重要な箇所ですので、この段落全体を引用します。


このためには、一つのことが必要であり、しかもその一つだけが必要である。それは、セラピストが決して自分自身を神と混同しないということである。すべての「癒されていないヒーラー」は、何らかの形でこの根本的な混同をきたしている。なぜなら、彼らは自分自身を、神に創造されたものではなく、自分により創造されたものと見なさずにはいられないからである。この混同が仮に自覚されることがあったとしても、それはきわめて稀である。そうでなかったなら、癒されていないヒーラーは、ただちに、自分の人生を真の癒しの機能のために捧げる神の教師となることだろう。その地点に達する以前の彼は、自分には治療のプロセスが任されていると考え、それゆえに自分はその結果に責任があると思っていた。それゆえに、彼の患者の間違いは、彼自身の失敗となり、罪悪感が暗く強力な覆いとなって、キリストの聖性であるはずのものを隠していた。決断をするにあたって自分の判断を用いる者たちにおいては、罪悪感は回避できないものである。自分を通して聖霊に語ってもらう者たちにおいては、罪悪感は不可能である。(P-2.VII.4.)


このように、治療者が「分離」を見続けている限り、必ず罪悪感が生じていますから、治療者と患者との間の関係が、互いに罪悪感を押し付けあう〈特別な関係〉となってしまいます。(例えば、治療者が罪悪感を感じなくてすむようにという目的のために、患者が癒されることを期待するというような関係が成立することになります。)


ですから、「自分と他者が存在する」という前提のもとで、“自分が” 他者を癒すと考えている治療者は、真の意味で「癒す」ことはできません。けれども、他者との関係を、「自分を癒す機会」とするために聖霊に助けを求めるなら(つまり、赦しのプロセスを行うなら)、治療者は自分の罪悪感、およびそこから生じている〈特別な関係〉を癒し、真の意味で他者の助けになる治療者となることができます。


小冊子「精神療法」は、以上のような、「治療に従事する人々の癒し」という観点からの赦しのプロセスについて、さらに詳しく説明していますので、全体をお読みになれば、お役に立つことと思います。


ここでは、最後にもう一箇所だけ、「精神療法」から引用しておきます。


では、誰がセラピストであり、誰が患者なのだろう。最終的には、誰もがその両方である。癒しを必要としている者は、癒さなければならない。医者よ、汝自身を癒しなさい。(P-2.VII.1:1-4)


さらに、「自分と他者は異なっていない」という認識により達成された癒しの具体的な一例について、FACIMのQ&A【質問114】「他者の癒しと自分の癒し」が説明していますので、そちらも参照してください。


  [2018年5月19日]

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