JQA #29:「自分を遣わした聖霊」(T-2.V.18:2-6) とは?
【質問】
奇跡講座テキストの中に、このような比較的有名なところがあります。
私は、真に助けとなるためだけにここに居る。
私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る。
何を語り、何を為すべきかを、案ずる必要はない。
私を遣わした聖霊が私を導くからである。
聖霊が私と共に行くと知っているので、
私はどこであろうと聖霊が望むところに居ることに満足する。
聖霊に癒すことを教えてもらうなら、私は癒されるだろう。
(T-2.V.18:2-6)
ここで、疑問なのですが、私は聖霊に遣わされているのでしょうか?
「私」についてコースで出てくる表現としては、エゴとしての私(肉体)は幻想で、神に創造されたままの愛の光としての無辜の私が本当の私なのだと思っているのですが、「聖霊に遣わされた」という表現だと、この世にくるのに聖霊に遣わされてきているような感じで読めるので、違和感をいつも感じてしまいます。
神からの分離を自ら選択したので、自分でこの世(肉体)にきている(ので、聖霊に遣わされてこの世にきているわけではない)のだと思うのですが、どのように解釈すると良いでしょうか?
英語の原文を読むと、
“I am here only to be truly helpful.
I am here to represent Him Who sent me.
I do not have to worry about what to say or what
to do, because He Who sent me will direct me.
I am content to be wherever He wishes, knowing
He goes there with me.
I will be healed as I let Him teach me to heal. ”
となっているので、翻訳内容にも違和感を感じません。
ご意見いただけると幸いです。
と、ここまで書いたことを読んでいて、感じたのですが、
Him Who sent meと大文字になっているので、この場合のmeは、神に創造されたままのmeで、無辜の神に創造されたままのmeをさしているから、この世の肉体のmeではない、ということなのでしょうか?
【回答】
ご指摘の通り、世界も肉体も自我が作り出した幻想であるということが『奇跡講座』の基本ですから、その観点からは、肉体をもった人間としての私たちが、文字通りの意味で、「聖霊から遣わされて」この世界にやってきた、というようなことはありません。
そういう意味では、おっしゃる通り、自我を選んだ自分が、「自分でこの世に来ている」と言うことができます。
また、ご質問の最後で述べておられるように、「聖霊から遣わされた私」という言葉を「神に創造されたままの私」という概念に関連付けることも、できないことはありません。
けれども、この祈りの言葉 (T-2.Ⅴ.18:2-6) は、そうしたレベルとは違ったことについて語っています。
まず理解すべきことは、「聖霊に遣わされる」という表現自体が比喩的な表現であり、もっと深いレベルのことを象徴的に表わしているという点です。
言葉を使って何かを説明している限り、私たちは自我の領域にいますから、一元論的な理論に基づく『奇跡講座』ではあっても、その中の説明や描写の仕方がどうしても二元的になってしまうことがあります。「用語の解説」の中でも、「このコースは、それが必要とされている場である自我の枠内にとどまる」(C.in.3:1)と説明されている通りです。
この世界における私たちの存在の仕方自体が、自我の枠内にありますから、たとえば、「願っていたことが、思いがけない形で実現した」というような経験をしたとき、この世界では、「神様が願いを叶えてくれた」とか、「守護霊に導かれた」とか「守られた」などと表現されることがあります。そうした体験においては、自分以外の存在が助けてくれたかのように感じられるので、人々はそのような表現をするわけです。
ですから、『奇跡講座』の中にも、聖霊が私たちに具体的な指示をするとか、聖霊が誰かを私たちのもとに送ってくるなどといった表現が、ところどころで使われています。けれども、『奇跡講座』では、そうした二元的な表現を使っている場合でも、もっと深いレベルの意味を読み取ることができます。
このご質問で引用されている箇所(T-2.V.18:2-6)も、そのような「自我の枠内」の言葉遣いの一例です。
特に、この「私は、真に助けとなるためだけにここに居る。私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る」という有名な箇所は、ヘレン・シャックマンが『奇跡講座』の口述筆記を始めてからまだ間もない時期に、同僚のビル・セットフォードにイエスから与えられた特別なメッセージの一部だったものが、最終的に、イエスの指示により『奇跡講座』の中に組み込まれたものでした。(参照:中央アート社・刊『天国から離れて』、347~350ページ) ですから、その当時は、ヘレンもビルも、まだ一元論のコースを学んでいるという自覚はほとんどなかったかもしれません。そうした背景も、ここで「聖霊が私たちを遣わす」とか「導く」といった二元的な表現が使われていることの説明になると思われます。
そういうわけで、このT-2.V.18:2-6 の文面は、文字通りに受け止めるなら、その意味は、「自分とは異なる存在である聖霊という存在がいて、自分の言葉や行動を導いてくれていて、そのような聖霊から手取り足取り教えてもらうことにより、他者を癒すことを学び、自分も癒される」ということのようにも読めます。
けれども、このコースの一元論的な理論の枠組みに当てはめて読むならば、以下のような意味になります。
まず、これは、「奇跡を行う者たちの特別の原則」という題のセクションにある8つの原則の8番目の原則として紹介されている文です。
この第8番目の原則の前置きとしては、このように記されています。
(8)助けが求められている状況において、次のように考えるならば、あなた自身の癒しのため、また他の人々の癒しのために、あなたは多くを行うことができる。
このように、これは、助けが求められている状況において、自分をも他人をも癒すことができるようになるための、「心構え」と言えるような言葉なのです。また、「そのようになれますように」という願いを込めた祈りの言葉でもあります。
ですから、まず、最初の2行:
私は、真に助けとなるためだけにここに居る。
私は自分を遣わした聖霊の代理としてここに居る。
ここでは、「真に助けとなる」という目的を明確にしています。
「自分を遣わした聖霊の代理としてここにいる」というのは、「聖霊を体現できるような存在になろう」という意図をもつことを意味しています。
聖霊というのは「正しい心」の状態の象徴ですから、心の中で「正しい心」を選んだ状態にいれば、世界の中に存在する肉体のレベルでは、その正しい選択が反映されます。ですから、そのことが、「自分は聖霊に遣わされていて、聖霊の代理の役目を果たしている」というような象徴的な言葉で表現されています。
そのような意図を持つことにより、それが可能になりますが、そのための具体的な手段は、もちろん、赦しです。「用語の解説」でも、「イエスは聖霊の顕現である」(C.6.1:1)と言われているように、私たちも、赦すことによって聖霊を表わす者となっていくのです。
そうなったとき、「何を語り、何を為すべきか」について、私たちは迷うことがなくなります。
何を語り、何を為すべきかを、案ずる必要はない。
私を遣わした聖霊が私を導くからである。
「聖霊が私を導く」というのも、厳密に言えば、「私」自身とは異なる別の存在である聖霊が「私」という存在を導くのではなく、「私」が心の中で「正しい心」を選択した結果、「正しい心」につながっていることにより、自然に正しいことを語り、正しいことを行うようになる、という意味です。
そして、その「正しいこと」というのは、具体的な状況における特定の言葉や行動のことではなく、何よりもまず、「自分も他人も同じ神の子である」という理解そのもののことです。その理解があるところでは、それが自ずと言葉や行動にも反映されるようになります。それは、ここにいる私たちが自分で、行動レベルで正しいことを言ったり行なったりしようと努力しなくてもそうなるので、確かに、あるレベルでは、自分以外の存在に「導かれている」と表現することもできるような形で経験されることもあります。けれども、もっと深いレベルでは、それは単に、私たちが「正しい心」につながっている状態から自然に生じている、ということなのです。
聖霊が私と共に行くと知っているので、
私はどこであろうと聖霊が望むところに居ることに満足する。
「聖霊が私と共に行く」、「私はどこであろうと聖霊が望むところに居る」というのは、「正しい心」を選ぶことはいつでもどこでもできるので、私たちは常に、聖霊と共に歩み、聖霊の望む場所にいると言えるからです。
聖霊に癒すことを教えてもらうなら、私は癒されるだろう。
そうして、私たちが「正しい心」を体現する者になることにより、自分自身も他者も、一緒に癒されるのです。
[2018年8月10日]