QA #32: (1) 赦しの第1ステップ、 (2)神の処罰について
【質問】
2つ質問があります。どうぞ宜しくお願い致します。
(1)
小冊子「思考の逆転」の104ページ、赦しの第1ステップ「他者に罪があると思っていたけれど、そうではなかったと認識しました」の部分についての質問です。
自分に罪を投影した場合(この世界では、病気という結果として現れる)、原因は心の中にあって、心の中の決断の主体が自我を選んだということですから、第1ステップで、「他者に罪があると思っていたけれど、そうではなかった」と認識するときには、この他者の中に自分も含まれていると考えていいのでしょうか?
或いは、「自分に罪があると思っていたけれど、そうではなかったと認識しました」となるのでしょうか?
でも、そうだとすると、第2ステップと同じになってしまいます。
そこをどう考えればいいのでしょうか?
(2)私たちは、自分は神から分離していると信じていて、それを罪と呼び、神からの処罰を恐れています。
テキストには、「それならば、罪に殺された神の死を嘆きなさい! そして、これこそが自我の願望であり、狂気の中で自我はそれを達成したと信じている」(テキスト19章、Ⅱ「罪と誤り」7:6・7)とあり、神を殺したと自我は信じています。
でも、「神が死んだ」と信じているのなら、どうして神の処罰を恐れているのでしょうか?
【回答】
(1)
[質問の要点]第1ステップで、「他者に罪があると思っていたけれど、そうではなかった」と認識するときには、この他者の中に自分も含まれていると考えていいのでしょうか?
これは、「自分」という言葉の使い方に混乱があることで疑問が生じているようですので、それを整理してみれば、答えは自ずと明らかになると思います。
赦しのプロセスにおける第1ステップで、「他者に罪があると思っていた」というときの「他者」というのは、「自分の意のままにならないもの」なら何でも、それに当てはまると考えてさしつかえありません。
そして、この「自分の意のままにならない」というときの「自分」というのは、赦しの第1ステップについて語っているときは、自己概念Bとしての自分ということになります。
そして、自分の体が病気になるときでも、多くの場合、自己概念Bとしての私たちは、外の世界の中の何かに病気の原因があると考えて、何かのせいにしていることがあります。
たとえば、過労で倒れた人が、残業の多い職場のせいで自分は病気になったと考えたり、食べ物の好き嫌いが激しい人が、病気の原因は偏食による栄養の偏りだったと考えたりすることがあります。このような場合は、病気になっている自分はこうした外的要因の被害者であると感じられますから、自分自身が病気でも、「他者(人・物質・環境などを含む)に罪がある(=他者のせいで自分が被害を被っている)」と思っていることになります。
ですから、この場合は、普通の人間関係における赦しと同じように、これらの外的要因を自己概念Cと考えて、そのCに罪があると見ていることになります。
つまり、これも、「他者に罪があると思っていた」ということになります。
けれども、自分の病気の場合は、さらに、以上のケースとは異なるように見える側面もあり、それが混乱のもとになりがちです。
それは、上記のような病気の原因の如何にかかわらず、自分が病気を患っている時は自分の体の中に痛みや不快感や不自由さなどがあるので、「自分の体の状態によって自分が苦しんでいる」と言えるように見えるからです。外的要因の場合のように明らかに自分の外にあるものによって被害をうけているようには思えないので、自分によって自分が苦しんでいるように感じられるわけです。
そうすると、ご質問で述べられているこのような疑問が生じてくることになります: ”第1ステップで、「他者に罪があると思っていたけれど、そうではなかった」と認識するときには、この他者の中に自分も含まれていると考えていいのでしょうか?
けれども、赦しの第1ステップにおいては、あくまでも、「自分以外の何か」と思えるものによって自分が被害を受けているというパターンを見つける必要があります。
ですから、自分の肉体が自分自身のように思えるとしても、この第1ステップでは、「自分」と「自分の肉体」を分けて考える必要があります。
そうすると、「自分の肉体」の痛みや何らかの不調のせいで、「自分」が苦しんでいるというパターンを見つけることができるはずです。
ですから、第1ステップで、「他者に罪があると思っていたけれど、そうではなかった」というところは、この場合、「自分の肉体が自分を苦しめていると思っていたけれど、そうではなかった」という認識となります。
このように、自分と自分の肉体を同一視してしまうことは、普通、非常によく起こります。というよりも、このコースを学んでいなければ、ほとんどの人々が、自分と自分の肉体を同一視しています。
『奇跡講座』は、私たちが「自分は肉体ではなく心である」と認識できるようになる方向へ導いていきますが、それでも、それは簡単に達成できることではありません。
もともと「肉体と世界は、心を忘れるという目的のために作り出された」ということを思えば、それが難しいのは当然と言えます。
だからこそ、ワークブックでは、「私は肉体ではい。私は自由である」という主題概念が何度も繰り返し出てくるのです。
そして、赦しの実践を通して、私たちは、「自分は肉体ではない」ということを、少しずつ会得していくことになります。
私たちがどれほど肉体と自分を同一視しているかについては、本館のQ&A#116「肉体の癒しについて」も参照してください。
( 2)
[質問の要点]「神が死んだ」と信じているのなら、どうして神の処罰を恐れているのでしょうか?
論理的に考えると、これは意味をなさないのですが、自我の心理状態においては意味をなすのです。
もともと自我の思考体系はその内部では首尾一貫性があるとはいえ、聖霊の理性から見れば、その思考体系全体が狂気です。そして、狂気というのは、正気の観点からは意味をなしません。
『奇跡講座』の中では、この「自我の狂気」が作り出した世界は「夢」と呼ばれていますが、私たちが睡眠中に見る普通の夢の中でも、荒唐無稽で意味をなさないことがよく起こるということは、ご承知の通りです。そうした夢の中と同じような混沌状態が、私たちにとっては無意識の領域において選択されている自我の思考体系の特徴の一つと言うことができます。
テキストの中にこのような描写があります。
夢の中では軍隊はどのように行動するだろうか。どんな行動でもとるのである。相手も手段も選ばず攻撃しているように見える。夢の中に理性はない。一輪の花が毒矢に変わり、子供が巨人になり、ネズミがライオンのように咆哮する。そして愛も同じくらいたやすく憎悪に変貌する。これでは軍隊どころではなく、狂人の館である。計画された攻撃のように見えるものは、狂乱にすぎない。(T-21.VII.3:7-14)
この「一輪の花が毒矢に変わる」とか、「子供が巨人になる」といった視覚的イメージは、私たちの日常的な現実の中ではありえないことであっても、夢の中ではそうしたことも起こるので、私たちにもなんとなく馴染みのあるものに感じられるはずです。
そして、自我の狂気を信じて罪悪感を抱いている心の心理状態においては、「確かに殺したはずの相手が自分を殺しにくる」ということも「ありえること」に感じられるわけですが、それは、自分が罪を犯したと信じて、罪悪感を感じている状態にあるとき、「自分は罰せられる」と感じずにはいられないからです。
自我が作り出した世界では、これが人間の普遍的な心理的メカニズムとなっています。
シェークスピアの戯曲『マクベス』の中で、殺害に使われた短剣によって血まみれになった手を、マクベス夫人が何度洗っても血は消えないという有名なシーンがありますが、これは、罪悪感が引き起こす心理を如実に描き出している典型的な例と言えます。これが、自我の思考体系を信じていて罪悪感を抱いている心には避けられない心理状態です。
また、自我の発生の時点では神と神の子しかいなかったわけですから、自我の思考の中では、神を殺して逃げ出しても、いずれ自分を罰することになる存在も、神しかいません。ですから、この世界では、たとえば、運転中にスピードを出しすぎる傾向がある人が、路上でパトカーを見るたびに「スピード違反が見つかってしまったかもしれない」とビクビクしてしまうというようなときも、深層心理においては、私たちは自分を処罰する究極の存在としての「神」というものを信じているのです。それが最終的に、明確な形で現れるのが「肉体の死」というものです。
けれども、これは自我の狂った思考体系の中でのことです。
その外にある聖霊の思考体系から見れば、「これは意味をなさない」とわかります。
ですから、聖霊を教師に選べば、「分離は起こっていないし、神も怒っていないし、罪も罪悪感も存在しない。だから、この世界と肉体を作り出す必要さえなかった」ということを、教えてもらえるようになります。
そのためには、私たちがなぜ自我の嘘を信じたのかを理解する必要があり、それを丁寧に教えてくれているのが『奇跡講座』なのです。
[2018年9月20日]