質問79: 『奇跡講座』は、理論を受け入れなくても実践できますか?
『奇跡講座』を学び始め、その原理を正しく用いるためには、このコースの「神話」の部分を理解することが必要なのでしょうか。
私は、罪悪感の起源に関する『奇跡講座』の形而上的理論に関して、かなり抵抗があります。それでも、その実用的な適用 (つまり、自分の教師として自我かイエスかのどちらかを選ぶということ) は、論理的で有用だと思えます。
もし私がこの世界の起源にまつわる『奇跡講座』の神話を真に受け入れないとしたら、このコースが定義している通りの〈赦し〉を本当に実践することはできるのでしょうか。
回答
〈赦し〉の実践がもたらす恩恵は、それにより私たちの気持ちが良くなるということです。自分自身の問題について他者を責めることの中には自己欺瞞が含まれており、その自己欺瞞がもたらしていた苦痛を手放すことになるからです。その意味において、それは実用的です。そして、私たちがいつでも助けを求めることのできる愛情深くて聡明な内なる教師がいると知ることは、大きな慰めになります。
このことだけでも、私たちはかなり長い間、満足していられますし、そこにずっと留まり続けたいと思えば、そうすることさえできることでしょう。『奇跡講座』がそのように使われて、個人的に大きな恩恵や慰めになるということは、あり得ることです。イエスからの優しい導きを経験したり、他者に対する自分の投影を撤回したりするだけのためなら、『奇跡講座』の形而上的原理は必要ありません。もし人が、そのレベルに居ることが自分を神へ近づけると思えるのであれば、それが悪いことであるはずはありません。
けれども、あなたは具体的に 「『奇跡講座』が定義する通りの〈赦し〉」 と述べておられますから、そこで止まらずに先に進む必要があります。ですから、私たちは先に進むことにしましょう。
「ワークブック」序文の始まりと終わりの部分が、この点についてもう少し明らかにしています。序文は、まずはじめに「テキスト」と「ワークブック」の関係について語っています。
「テキスト」が提示しているような理論的基盤は、この「ワークブック」の演習に意義をもたせる枠組みとして必要なものである。しかしこのコースの目標の達成は、演習を行うことで可能となる。訓練されていない心には、何も達成できない。「テキスト」が教えている通りの考え方ができるように心を訓練することが、この「ワークブック」の目的である。(W-in.1)
そして序文の終わりの部分(W-in.8-9)は、レッスンの中で提示されている想念や概念に関して、私たちがおそらく遭遇することになる「信じがたい」という気持ちや抵抗といった問題があるということを認めています。そして私たちに対し、それらの概念に是非の判断を下したり評価したりすることなく、指示されるそのままに使用することだけに集中するようにと、助言しています。なぜならば、それらの意味や真実性は、私たちがそれらを使用することで私たちに顕現されるからです。
ここに暗示されていることは、受講生たちは、そのようにして学んでいく過程のどこかで、『奇跡講座』の理論的原理に直面することになる、ということだと思われます。
たとえば、「誰かを、その人自身がしなかったことについて赦す」という、本当に衝撃的で、心の奥深くに挑んでくるような言葉が、〈赦し〉の意味していることだとわかってくるにつれ、私たちは究極には罪悪それ自体の実在性を疑問視することへと導かれていきます。それはそのまま私たちを『奇跡講座』の形而上的レベルに連れていくことになります。実際のところ、このコースの〈赦し〉の見解は、その形而上的根拠を自覚していなければ、その意義を充分に味わうことはできません。罪や罪悪感の幻想性ということが、私たちの考え方や不満への対応の仕方において不可欠の部分をなしていない場合は、真に起こったことを赦すという伝統的な赦しの見解へと舞い戻ってしまうのは、いとも簡単なこととなります。
ですから、あなたの質問に対する答えは、「はい」でもあり、「いいえ」でもあります。人は、〈赦し〉を練習し、導きを求めてイエスに頼ることにより、恩恵を得ることはできます。しかし、罪悪感の起源に関する理論が無視された場合は、『奇跡講座』に提示されているような〈赦し〉のプロセスは短絡的に受け取られてしまい、その意義が充分に味わわれることがなくなります。もし、この理論を受け入れないということがはっきりしている場合は、『奇跡講座』が教える通りの〈赦し〉の実践は不可能となるでしょう。