質問112: 〈特別な関係〉の本質が「憎悪」だというのなら、愛は不可能ではないのか
〈特別な愛の関係〉と〈特別な憎悪の関係〉にどのように「アプローチ」すればいいかということに関して、お尋ねします。『奇跡講座』についての私の理解が正しいなら、この二つの関係は同一のもので、どちらも、「真の」愛から私たちを引き離しておくものということになると思います。
『奇跡講座』はそれらを聖霊に明け渡すようにと「勧めて」います。私はこれまで、愛と憎悪の両方を含んでいる一つの〈特別な関係〉と何とかうまくやってこようとしてきました。最初はその関係を拒否したのですが、その後また、そこに戻ってきました。というのは、『奇跡講座』が、「この人生を『幸せな夢』にした後でその夢から『目覚める』ことができるようになるためには、自分の様々な〈特別な関係〉を愛さなければいけない」というようなことを論じている(と私は思った!)からです。けれども、究極には神や私たちを攻撃するために「作り出された」ものを、どうして私たちが愛することなどできるでしょう。それは矛盾ではないでしょうか? むしろそれは、私たちの「癒し」に逆効果さえもたらすのではないでしょうか? だとしたら、他人を「拒否」して歩み去る方がいいのではないでしょうか。
私は、その人との関係においては、「愛だけを与える」ことは、非常に難しいと感じています。そこには、対処すべきと思える問題があるのですが、私がそれに取り組むと、最終的には、この関係の本質である「憎悪」が前面に出てくるのです。私たちはこの世界の中でどうすれば真の愛を与えることができるのでしょうか。さらには、どのようにして、真の愛を認識するのでしょうか。
回答
どの〈特別な愛の関係〉も、〈特別な憎悪〉を隠す仮面だという点について、あなたは正しく理解しておられます。特別なものであれば、それは憎悪に満ちています。形においてはそうとは限りませんが、内容においては確かにそうなっています。
『奇跡講座』においては、「特別な」という言葉は「分離している」という言葉と同義です。どの〈特別な関係〉も、分離の信念を中核としているからです。このことを心に留めておけば助けになります。というのも、〈特別性〉が愛あるものに見えているときでさえも「憎悪に満ちている」のはなぜなのか、その理由をこのことが説明しているからです。
分離というのは、殺意の想念です。その想念により、神の子は、自分が神の力を横領することができ、神から生命{いのち}を盗み取ってきて、神の愛から独立した一個の肉体の中で生きることができると信じています。これが、あらゆる〈特別な関係〉の内容です。形の上ではいかに愛に満ちたものに見えようとも、それがその内容です。このように形態と内容を区別するということが、〈特別な関係〉に関する混乱を解決する鍵です。内容においては、それらはすべて同じなのです。
どんな関係においても、問題は、その形態を特徴づける表面的な愛や憎悪ではなく、心が分離を信じ続けるためにその関係を用いることを決断し、それにより神の愛から自分を防衛しようとしている、ということなのです。あなたが言及されたその人との関係の中に、この自我の力動が働いていることを認識しようとする意欲をもつことが、その関係を聖霊に明け渡す方法なのです。私たちは〈特別な関係〉を失う必要はありません。私たちがそれらを奪われることはない、とイエスは述べています。
すでに繰り返し述べてきた通り、聖霊はあなたから特別な関係を奪うことはせず、それらを変容させようとする。(T-17.IV.2:3)
あなたがその人との関わりの中で経験する「憎悪」とは、自我を選択することにより神を攻撃したことについて心が抱いている罪悪感が、投影されたものです。それは、相手の人物とは何の関係もないものです。けれども、それが心による投影だということを自覚しつつも、形態のレベルのどんな問題にでも対処することはできます。それらの「問題」がその関係における葛藤の原因なのではなく、罪悪感が原因だということを認識しようとするとき、あなたのその意欲の中に聖霊が存在していると言えます。
この世界の中には、真の愛は存在していませんが、その反映は単純な認識から始まります。すなわち、「〈特別な愛〉という仮面をかぶった憎悪の起源は、心が聖霊の代わりに自我を教師として選ぶと決断したことにある」という認識です。
自我は形態に焦点を合わせ、自分の不快感を外界の何かのせいにしますが、聖霊は、すべてのものごとを心による選択を反映するものと見なすようにと、私たちに求めます。他者との関わりの中でどのような裁きや憎悪の感情などが浮上してこようとも、それに関わりなく、あなた自身が自分の投影に注意を向ける姿勢が徐々に身についてきたと気づくようになったら、そのとき、あなたは聖霊を選んでいると思って大丈夫です。
これが、『奇跡講座』が教えている〈赦し〉の実践の最初のステップです。それが、自我が神への攻撃として作り出したすべてを変容させる方法であり、聖霊が、分離への信念を取り消して、神のもとに私たちを連れ帰るためにそれらを使えるようにする方法なのです。あなたは、その人との関係の中に見出した憎悪を否認しないことにより、すでに正しい方向へと進む一歩を踏み出したのです。重要なことは、その憎悪の感情を変えようとしたり、それらと戦ったりしないことです。その代わりに、すでに述べた通り、それらの真の源は心が分離を信じているということだと、認識することです。
「テキスト」の序文で、イエスは、このコースのゴールは愛ではない、ということを明確にしています。
このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、たしかに目指している。愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。(T-in.1:6-7)
「障壁」とは、自我と同一化するという心の決断から派生する裁きの念やすべての想念のことです。それらは、認識されない限り、取り除くことはできません。だからこそ、『奇跡講座』の実践においては、自我を直視するということに重点が置かれているのです。聖霊の教えが放つ光のもとで自我を露わにすることこそが、自我が取り消される方法なのです。それは、私たちの側の努力によってではなく、「自分自身の想念が神の愛の記憶を妨げている」ということを見極めようとするわずかな意欲により、為されるのです。
私たちの心が聖霊を選択するときに自然に流れ出す愛は、誰ひとり除外しないので、「特別な」ものではありません。それは、他の人々を除外して特定の人々だけに向けられる一人の人の「愛」ではありません。聖霊から流れ出る愛へと通じる道が開かれるのは、裁くことなく投影が自覚されて、その愛を邪魔しようとするものが何もなくなるときです。
自我が作り出したすべてが神に対する攻撃なのですから、あなたを動揺させる状況や人物をわざわざ探し出す必要はないのです。険悪な人間関係から距離を置くことは、何ら悪いことではありません。偶像の場合と同じく、もし一つの関係が手にあまるように思えたときには、「別の形態を見つけることは可能である」(W-pI.170.8:7)からです。〈赦し〉の教室においては、あらゆるものごととあらゆる人が、等しく重要です。それらは、すべての裁きが脇に置かれて聖霊の愛が間断なく流れるようになるまでの間、愛の纏う形態にほかなりません。