質問119: 「奇跡」とは何なのでしょうか?
『奇跡講座』の言う奇跡とは何なのでしょうか。奇跡については丁寧に記述されていますが、私は依然として奇跡とはいったい何なのか、腑に落ちていません。
それらは、私たちが普通に「奇跡」と考えているものと似ているのでしょうか? 私たちは、それらが起こったときにそれとわかるのでしょうか? それとも、それらは常に起こっているけれど、私たちがそれに気づいていない、ということなのでしょうか?
何か奇跡の実例を挙げていただけませんか?
回答
まずはじめに、『奇跡講座』における奇跡は、外的なものごととはまったく関係ありません。奇跡は、私たちの心の中で進行していることにのみ、当てはまります。その意味で、奇跡は、伝統的な宗教が「奇跡」と考えてきたものとはまったく違っています。従来、肉体や世界の中の状況がすなわち問題である、と見なされてきました。単純に言えば、それゆえに、奇跡とは、そうした状況が、たいていは神または超自然的なものによる介入によって、癒されたり除去されたりすることだと見られてきたわけです。
一方で『奇跡講座』は、肉体や世界は、私たちの心の中の想念が投影されたものだと教えています。
それはあなたの心の状態を証{あか}しするものであり、内的状況の外的映像である。・・・・・だから、世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。(T-21.in.1:5,7)
さて、もしあなたが、この世界は自分の心の中の罪や罪悪感の想念が投影されたものにすぎないということを、本当に受け入れることができたなら、あなたは、この世界や肉体の中のものごとを変化させようとすることは、究極的には不毛な試みであると理解し、罪や罪悪感の実在性について自分の心を変えることこそが、真に癒すことだと悟るはずです。
だからこそ、「ワークブック」は次のように述べているのです。
奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-pII.13.1:1-3)
奇跡は私たちの思考を訂正するのであり、この世界や肉体の状況を訂正するのではありません。しかし、この一節はまた、私たちが気軽にこの世界についての知覚を退けるべきではないということも示唆しています。
知覚しているものを退けるのではなく、自分の生活やこの世界全体における惨状を直視し、その知覚を、私たちの心の中のイエスという愛ある存在のもとに運んでいくのです。そこで、私たちが、その「真理の反映」とつながることを選ぶときに、自分が知覚しているのは、実相ではなく、夢の内容にすぎないということを思い出すことになります。
奇跡は、あなたが夢を見ているということ、そして、その内容は真実ではないということを確立する。(T-28.II.7:1)
いったん自分の心の中の「真理の反映」とつながったなら、私たちは、自分の生活の中の様々な状況に反応するときには、その「真理の反映」によってのみ導かれるようになります。
これにはたくさんの練習が必要です。だからこそ、私たちには365のレッスンから成る「ワークブック」があり、さらにその最後に至ったところで、イエスは、「私たちはこの思考を逆転させるプロセスの始まりの段階にいるだけである」と、私たちに告げているのです。このコース全体が、まさにこの逆転のプロセスについての教えなのです。私たちの今この瞬間の思考が、真理の在り方の真逆になっている、ということです。私たちが原因という言葉で呼ぶことに慣れきっているものは、本当は結果なのです。
奇跡はいつ起こるのかと言えば、それは私たちが、ほんの一瞬でも、以下のことを思い出し、受け入れるときに起こります。すなわち、「自分や他者の平安の欠如や、病気や、剥奪感などの原因は、肉体やこの世界の中の何かではなく、私たちが心の中で下している選択である」ということ、つまり、「分離や、罪・罪悪感・恐れの思考体系と同一化することを選ぶという選択である」ということを、受け入れるときに起こるのです。
奇跡は、原因となるという機能を、結果ではなく原因に返還することにおける最初の段階である。(T-28.II.9:3)
私たちが他者の攻撃を「自分個人に向けられたもの」と捉えずに、「私たち全員が、同じ必要と同じゴールを共有している」と認識するときに、奇跡が起こります。つまり、私たち全員が、同じ自我の狂気を共有しているし、キリストの心眼{ヴィジョン}の健全さも共有しているのです。私たちは、時には、自分が心の中でそのような認識をしたということに気づかないこともありますし、時には気づくこともあります。そして、奇跡は、私たちが奇跡を望む意欲に応じて、何度でも起こります。