質問121: 一緒に学ぶ特定のパートナーは必要ですか?
「テキスト」第20章の「箱舟に乗り込む」(T-20.IV.)について理解したいと思っています。このセクションは、私たちの一人ひとりにとって、共に救済を達成する一人の特定の人物がいると言っているように思えます。けれども、私が理解している限りでは、世界の中の別個の人間のように見える存在の一人ひとりが自分の兄弟であり、私たちは全ての命あるものの中にキリストの顔を見なくてはならない、ということではないかと思うのです。
私は結婚していますが、妻は『奇跡講座』を学んではいません。そして私が見る限り、彼女は『奇跡講座』の教えを怖がっていると思います。
私はまた、『奇跡講座』を教えている組織の一つに遭遇したことがあり、そのとき、「真に学習し、救済を達成するための特定のパートナー」を誰でも一人持つ必要があると言われているのを聞いたことがあります。
こうしたことについて混乱している私を、助けていただけませんでしょうか?
回答
あなたは二つの関連した質問をしておられるようです。一つ目は、「私たちが赦しを実践するにおいて、その対象とすべき人はただ一人いるだけなのか、それとも数多く存在するのか」であり、二つ目は、「自分の学びのパートナーが『奇跡講座』の受講生ではない場合、私たちはこのコースを真に実践し、赦しのレッスンを学ぶことができるのかどうか?」ということだと思われます。
最初のご質問については、あなたは明らかに、「平安の箱舟」が出てくる段落の中の、「一見孤独にこの地上を歩む者たちの一人ひとりに、ひとりの救済者が与えられており、救済者のここでの特別な機能は、その人を解放し、それにより自らを解放することである」(T-20.IV.5:3) という文に言及しておられると思いますが、この文は、さらに次のように続いています。「彼らはみな同一の存在であるが、分離の世界においては、各々が個別に任命される。」(T-20.IV.5:4)
この二つ目の文が示唆しているのは、まさに、あなたが考えておられた通りのことです。すなわち、分離しているかに見える兄弟の一人ひとりを私たちが同一と見るようになるまで、すべての兄弟の上に赦しがもたらされなければならない、ということです。しかしまた、大抵の場合は、時間の中のどの時点においても、仲良くやっていくのが困難であるような特定の人物が一人いるというのも事実です。その人は、いわば最も難しくやりがいのある赦しのレッスンを提供してくれる人なのです。
この相手が誰であるかは、時間の経過とともに変化することもありますし、変化しないこともあります。けれども、人が変わることはあっても、その根底をなすレッスンは同じです。「自分自身の心の中にあることを認めたくないので彼らに投影した罪悪感」を、私たちが直視した上で手放そうという意欲を持つようになるまで、レッスンは同じものであり続けます。
ですから、すべての関係が赦しを練習する機会を提供するわけですが、最も激しく自分の神経を逆撫でするように見える人々こそが、私たち自身の中に埋もれた罪悪感の大きな象徴となっており、それゆえに、私たちが自分のレッスンを学ぶための最高の機会を与えてくれる、ということなのです。イエスは、「教師のためのマニュアル」の中で、教師と生徒の関係という文脈で、こうした様々なレベルの学びの機会について語っています。(M-3)
二つめのご質問については、あなたが言及された箇所をお読みになれば明らかになると思いますが、イエスが語っているのは、自分が学びのパートナーをどのように知覚するかということについてであり、行動・形態のレベルで、二人の間で具体的に何が起こるかということについてではありません。肉体をもった個人のレベルで、自分がパートナーを相手に何を行なうかということに焦点を置きたがるのは、私たちの自我です。『奇跡講座』によれば(T-28.IV.3) 、「関係」は心の中にのみ存在し、この世界の中の個人と個人の間に存在するのではありません。ですから、どのような関係においても、自分の癒しは、学びのパートナーが『奇跡講座』の原理を学んだり応用したりすることに参加するかしないかには、全く関わりないことなのです。
もし、相手が何らかの形で参加してくれることに私が依存しているとしたら、私は、相手の選択に翻弄されることになります。単に、相手をどう知覚するかについての私の内的な決断に依存しているのではない、ということになってしまいます。
そうは言っても、場合によっては、相手もまた『奇跡講座』を学んでいれば、形態のレベルで共有したり話し合ったりする機会が得られて助けになる、ということはありえます。しかし、自分自身の救済にとってそうしたことが必要ということは、全くありません。もしそうであったなら、自我が最初から私たちにつかませようとしてきた「まやかしの商品」と同じものを、イエスも私たちに売りつけようとしているということになってしまいます。つまり、「他者によって自分が被害を受ける」という考えがしっかりと存続し、それを避けることはできない、と教えていることになります。
さらに言えば、私の学びのパートナーが、私とやりとりする際に<正しい心>の中にいようと<間違った心>の中にいようと、もし私が相手を知覚するための導き手として聖霊を選んでいれば、私の反応は常に同じものとなります。というのも、自分自身の判断ではなく聖霊の判断を受け入れることで、私には相手が愛を延長させているか、愛を求める呼びかけを発しているだけか、どちらかでしかないということがわかるからです。それゆえ、私の反応は常に同じです。すなわち、私は自分が聖霊の愛を反映する器となることを受け入れるという反応になります(T.12.I)。その人と自分の関係のどの側面においてであれ、その人についての聖霊の知覚を受け入れたくないという私の気持ちは、単に、私の赦しのレッスンが学ばれないままになっている領域を示しているだけです。そして、そのような意味においてこそ、学びのパートナーであるその人は、真に私の救済者なのです。なぜなら、その人は、私の心の中の癒されていない闇の想念へと私を向かわせ、それにより私は、今、自分をどのように見るかについて別の選択をすることができるようになるからです。