質問136: 「平安への障害」の祈りの文についての2つの質問
質問 I
これを私から取り上げ、それを見て、代わりに判断してください。私がこれを、罪と死のしるしとして眺めたり、破壊のために用いたりすることがありませんように。どうすれば私がそれを平安への障害とせずに、あなたによって私のために使ってもらい、平安の到来を早められるかを、教えてください。
(T-19.IV.C.11:8-10)
これは、私たちに、自分の知覚を平安への障害として使わずに、そして、平安の到来を早めるものとしてして使う、ということを言っているということで、正しいでしょうか?
回答 I
はい、その通りです。実際、この祈りは『奇跡講座』で教えられている赦しのプロセスについて、非常に明確にまとめた要約のようになっていると言えます。心の中にざわざわした動揺があることに気づいたらすぐに、私たちは自分が間違った判断をしていたことを認識し、その状況(または人)を聖霊に判断してもらうように頼みます。私たちの知覚が動揺を引き起こして平安の障害となっていたのですから、聖霊に判断してもらうように頼むことによって、私たちが、平安の到来を早めるような見方で知覚することができるようになるのです。
質問 II
この祈りは、戦争にさえも当てはまるのですか? 戦争というものは、私たちが自分たちや他の人々を傷つけるために自ら選んだものですから、それが私たちの救済の手段となることなど可能なのでしょうか?
回答 II
あなたは半信半疑かもしれませんが、ご質問の答えは、明確に、「戦争にさえも当てはまる」となります。この世界のいかなる行為でも、救いの手段となりえるのです。
あなたが作ったものを、害するためでなく癒すために用いる聖霊のやり方である。(T.25.VI.4.1)。
だからこそ、『奇跡講座』の焦点は行動ではなく、私たちの思考を変えることにあるのです。もっと具体的に言えば、私たちが誰と一緒に考えるかを変えるということです。私たちの行動(または他の人の行動)を変えようとすることは、実際には聖霊の機能を横取りしようとしているのです:
訂正はあなたの機能ではない。それは罪悪ではなく公平さを知っている存在に属するものである。自分で訂正の役割を担うなら、あなたは赦しの機能を失うことになる。 (T.27.II.10:1,2,3)。
ここでも、再び、非常にはっきりと断言されています。『奇跡講座』の実践において不明瞭に思えることは何であれ、必ず、自我との一体感から離れることへの恐れから生じています。なぜなら、イエスは、私たちが平安を自覚できるようになるために必要なステップを、これ以上はっきりと述べることはできないくらい明確にしてくれているからです。とはいえ、実際に「戦争をする」前に、そこに自我が関与していないことをはっきり確かめなければなりません。
[2024年4月1日]