質問75: 病気と死に関する2つのQ&A
質問・その1
私の質問は、病気についてです。『奇跡講座』によれば、病気とは心が病むものであり、一つの視点である、といった概念は、私も理解しています。けれども、肉体を自由に離れて幻想から離脱できるほどの悟りのレベルに達していない限り、私たちは誰でもみな、いつか何らかの不調で死ぬことになります。
ということは、霊性においてどの程度のレベルに達していたかに関わらず、人は誰でも、依然として何らかの「赦そうとしない気持ち」を抱いている、ということなのでしょうか? 私は非常に高いレベルに達した人々で、それでも病気になったり、発作を起こしたり、その他の健康の問題を抱えていた人々を知っています。
回答
『奇跡講座』は、「誰も自分自身の承諾なしに死ぬこともない」(W-pI.152.1:4)と述べていますが、この決断は、〈間違った心〉によるものであることも、〈正しい心〉によるものであることもあり得ます。
「死」に関する 『奇跡講座』 の見解における<内容>と<形態>の間の重要な区別については、他のQ&A (JACIM のQ&A #76) においても取り上げていますので、そちらも参照してください。
理解の鍵となるのは、「心がどちらの思考体系を選んだのかということや、心が目覚めに達したのかどうかといったことは、肉体が呈している状態から自動的にわかるものではない」という点です。
ですから、外見だけで判断すべきではありません。たとえば、もし何らかの価値あることを教える目的があるならば、癒された心が、癌におかされて死にゆく肉体の形をとることもあるかもしれません。けれども、その心は苦しんではいません。これは、私たちにとっては、理解し、受け入れるのが最も難しい教えです。というのも、私たちは自分の心について自覚していませんし、肉体中心の考え方をしているからです。
イエスの肉体は確かに、その最期においては悲惨な状態にあったように見えました。それでも私たちは、それゆえにイエスの心も肉体と同じように悲惨な状態にあったに違いないとは結論しないでしょう。ということは、一見したところ苦痛に苛まれている肉体でも、必ずしも痛ましい悲劇だということにはならないのです。しかしこれも、正しい状態にある心の視座から、すなわち「肉体からなる自我の世界という戦場」を超えたところに位置する視座から見て、初めて理解できることです。
質問・その2
「ワークブック」のレッスンの中に、「誰も自分自身の承諾なしに死ぬこともない」(W-pI.152.1:4)という一節があります。ということは、(私たちが世界の中に居て肉体の中に生きている間に)心の中の何らかのレベルにおいて、「これで、この人生は終わりにする」と決めるところまで到達する、ということなのですか? それとも、私たちの死(肉体の死)が時間の中のいつの時点で起こるかということは、最初に肉体として生まれることを決断した結果として決まっているのでしょうか? レッスン152の中のこの文言について、先生はどのように理解しておられるのかを教えていただけませんか?
回答
死ぬことについてのこの一節は、「私たちが心の中で同一化することのできる目的は、二つしかない」ということを背景とすれば、最もよく理解することができます。私たちはどの瞬間にも常にその二つの目的のうちのどちらかを選択しています。つまり、分離の信念を強化するか、それを取り消すか、どちらか一方を常に選んでいるのです。
ですから、『祈りの歌』からの以下の一節で説明されている通り、死が、私たちの〈赦し〉のレッスンの完了とともに訪れるということはあり得ます。
それは静かな選択であり、神へと向う道すがら、肉体が神の子を助けるために優しく使われてきたがゆえに、喜んで、安らかに下される選択である。(S-3.II.2:1)
けれども、この文は、心の「内容」だけを表現しているということを理解してください。「形態」は、癌であったり、脳梗塞であったり、その他、肉体が機能を停止する様々なやり方となることもあり得ます。その形態は、必ずしも心の内容を表してはいません。
また、死に至る病の目的が、自我に基づくものとなることもあり得ます。たとえば、自分自身や他者を罰する一つの方法として死を使うこともできます。いずれにしても、それは常に、一つの選択なのです。
ご質問の中の二つ目の点については、心は時間によって束縛されてはいないので、肉体の死のために予め定められた時というようなものはありません。「ビデオテープ・ライブラリー」という喩えを使うなら、死のビデオはいくつもあって、心の中の〈決断の主体〉は、自らが同一化している目的に基づいて、それらの中のどのビデオでも選ぶことができます。
けれども、こうしたことのすべては、時間と空間の外にある心の中で起こることなので、この世界に居る私たちの現在の状態においては、事実上、理解するのは不可能なことです。