『奇跡講座』の原稿の歴史

 

Ⅰ. 序文

 

詳しくはこれから論じることになりますが、『奇跡講座』の初期の原稿をめぐって生じている最近の状況により、ヘレン・シャックマンのノートから1976年の出版に至るまでのこのコースの歴史について説明することが必要になりました。本稿は、2007年にアトランタで行なわれたワークショップにおいて、一人の参加者からの質問に答える形で、直接この問題について取り上げた1つのセッションの記録を編集し、加筆したものです。  

これから述べることの多くは、すでに拙著『天国から離れて:ヘレン・シャックマンと「奇跡講座」誕生の物語』の中で論じられていますが、さらに本稿が、『奇跡講座』を学んでいる人々が、自分たちの読んでいる本 ― ヘレン自身が認定し、「内なる平安の財団」(FIP)により出版されたもの ― について抱くかもしれない質問に答え、誤解を訂正し、心配を和らげるための一助となるよう願っています。

 

 

 

Ⅱ . 筆記プロセスの概略

 

まず最初に、どのようにしてこのコースが書かれ、どのようにして、ヘレンが記録したものが最終的に私たちの手にしているような本となったか、その概略を簡単にお話しするところから始めたいと思います。尋ねられた質問に答えるプロセスも、そこから始まります。それらの質問のほとんどが誤った情報に基づいているからです。

1965 年10 月に、ヘレンが『奇跡講座』を記録し始めた時、彼女は自分が聞いたものを書き留めました。彼女の筆記についての誤解や俗説のうちの一つは、ヘレンが内なる声を聞いたのは、このときが最初だった、というものです。これは事実ではありません。彼女は、その夏の後半を通じてずっと、イエスの声を聞いていましたし、彼女の体験では、これがイエスだということは明らかでした。ここで付け加えておきますと、ヘレンは内なる声を聞いていたと言ってはいましたが、それはこうした類いの体験について述べるときの従来のやり方に倣ったからです。後年になって彼女が私に話したところによれば、その体験は、心の中で言葉を見て、自分が「見た」ものを書き留めたというほうが実状に近い、ということでした。

『奇跡講座』以前にヘレンが受け取っていた初期のメッセージは、その多くが、脳腫瘍で亡くなりかけていた近しい同僚を気遣う彼女を助けようとするものでした。その人はその後、亡くなりました。ヘレンはこれらのメッセージを速記で、専用のノートに書き留めました。彼女は大学院にいた時に速記を習い、自分なりの流儀を編み出していました。それは、主要な二つの速記法であるグレッグ式とピットマン式を部分的に混ぜ合わせたものでした。

 

ヘレンとビルは、当時のとても忙しいスケジュールの中で時間を見つけては、前日に口述されたものをヘレンがビルに向かって読み上げ、ビルがそれをタイプ打ちする、ということを続けていました。後になって彼はよく冗談めかして言ったものです。ヘレンがとても神経質になっていたので、自分は一方の手をタイプライターの上に置き( これはコンピューターがない時代のことでした)、もう一方の手でヘレンを支えながらタイプ打ちしたものだ、と。ヘレンは筆記したものをビルに読み上げていると、時おり、言葉がつっかえ始めたり、声が出なくなったりすることもありました。彼女が普段はいつも流暢に話していたことを思えば、これは全く彼女らしくないことでした。

 

  最初の数週間の筆記は、大雑把に言って、テキストの第4章や第5章までを含む内容でしたが、その口述は、後に行なわれたものよりもずっと個人的なものでした。それはあたかも、ヘレンとイエスが居間の長椅子に座って会話しているようなものでした。ヘレンが質問し、イエスが答えました。彼女の聞き間違いに対する訂正もありましたが、彼女とビルと私はそうした聞き間違いを、のちに、「筆記者による間違い」と呼ぶようになりました。

 

実際には、『奇跡講座』はイエスが次のように言うところから始まりました。「これは奇跡についてのコースである。ノートを取ってほしい。奇跡について、まず第一に覚えておくべき基本的なことは、奇跡には難しさの序列はないということである」。出版された本では、このようには始まっていません。筆記に入ってから少しして、ヘレンはイエスに、もっとよい導入部が必要だと文句を言いました。事実上、次のように言ったも同然でした。「本を書くときに、『奇跡には難しさの序列はない』なんて言葉で始めようとする人なんかいませんよ!」と。それで彼女は、いくつかのことを書き留め、それが後に現在の序文の形に落ち着いたのです。

たいていは、ヘレンが一つの奇跡の原理を書き留めたなら、そのあと、その原理についてたくさんの議論がなされました。その中には、先に述べたようなヘレンからの質問も含まれていました。中には、ビルが考えていた事柄で、イエスに尋ねてくれるようにとヘレンに頼んだものもありました。この時期に口述されたものの多くは、公開されるためのものでないことは明らかでした。それらが意図していたことは、明らかに、ヘレンを個人的に助けることや、ヘレンとビルの関係が改善されるように助けることでした。彼らの関係に問題があったことが、『奇跡講座』がやって来ることになったそもそものきっかけだったのです。口述の話題はまた、ヘレンの夫ルイとヘレンとの関係や、ビルの友人とビルとの関係(ビルは同性愛者であり、一度も結婚しませんでした)にも向けられていました。

口述内容はさらに、ヘレンとビルの二人が共に知っている心理学(基本的にはフロイト派の心理学)と、『奇跡講座』の中で提供されている心理学との間のギャップを彼らが埋める事ができるように助けようとしていました。『奇跡講座』の心理学はとても精神分析的ですが、その一方で、フロイトが教えていたことから大きくはみ出しています。自我の思考体系の概略や力動論においては軌を一にしていますが、多くの具体的な事柄においては異なっています。そういうわけで、フロイトについてや、ユングやランクといった他の心理学者について述べられている口述内容がありました。

    

エドガー・ケイシーについての考察もいくらかありましたが、それは、ビルは当時ケイシーにとても興味を持っていたからです。実際、ビルはヘレンに、ケイシーが書いたものをいくつか読むようにと、強く勧めました。さらに彼らは、ヴァージニア・ビーチにあるAssociation for Research and Enlightenment (A.R.E.) というケイシーにより設立された研究機関へと、二人で出かけたこともありました。エドガーはすでに亡くなっていましたが、ヘレンとビルは、エドガーの息子で、A.R.E. の指導者の職務を引き継いでいたヒュー・リン・ケイシーに会いました。

 

 

   最後に、その他の話題に混じって、性的な事柄や統計学や精神遅滞についての口述もありました。最後の二つは、ヘレンの主要な関心事でした。

いくつもの理由によって、これらの口述記録は出版された本には一つも収録されていません。まず最初に、その多くがヘレンとビルにとって個人的なものであり、『奇跡講座』の教えとは関係がなかったからです。おそらく、さらに重要な理由としては、ヘレンは、彼女の自我が関与しているときには、甚だしく不正確だった、ということがありました。

こうした初期の口述記録のうち、かなり多くのものが、ヘレンにより彩色されています。しかしながら、ヘレンは、彼女の自我が邪魔をしていないときには、信じられないほど正確でした。だからこそ、このコースの純粋な教えが、そのままに存在しているのです。たとえば、ウルテキストの中に見られるような性に関する事柄をイエスが話しているところなど、とても想像できません。それが忌まわしいものだったというわけではありませんが、明らかに、ヘレン自身の価値観と偏りを反映していたということです。このことに関しては、また後で取り上げます。フロイトに関する口述記録は、非常にフロイトの方に重きが置かれています。

ユングは、あまり良く書かれていません。ヘレンはユングが好きではありませんでしたし、ビルも同じでした。彼らはユングとその業績をそれほど知っているわけではなかったのですが、ユングが好きではありませんでした。ですから、フロイトとユングに関するこれらの論評を読むと、そこには顕著な偏りが含まれていることが明らかになります。

もう一つの重要なポイントは、ヘレンが書き留めたメッセージが世界の中の何か具体的なことと関係があった場合、それらのメッセージはしばしば間違っていたということです。

 

 

   ヘレンは、自分が書き留めた言葉が

神聖なものだとは思っていませんでした。

ビルもそう思っては いませんでした。

・・・・・ ・・

何が神聖と扱われる べきかについては、

本稿の最後の方で 考察します。   

 

 

ヘレンとその筆記をめぐる俗説の一つは、ヘレンが聞いたものはどれもイエスから来たものに違いなく、それゆえに神聖なものと見なすべきである、というものです。これでは、聖書の中の一言一句を全く誤りのないものと見なす根本主義的キリスト教の立場と大差ありません。これ以上に『奇跡講座』についての真実からかけ離れているものはあり得ません。ヘレンは、自分が書き留めた言葉が神聖なものだとは思っていませんでしたし、ビルもそう思ってはいませんでした。(その点に関しては私も同じです。)何が神聖と扱われるべきかについては、本稿の最後の方で考察します。

 

  

いずれにしても、最初の二、三週間が過ぎた頃、ヘレンの経験は変化し始めました。口述は、会話ではなく、本質的に講義だけになりました。それはあたかも、イエスが教壇に立って講義していて、講義室にいる熱心な生徒ヘレンが、イエスが話したことをすべて書き留めているかのようでした。テキストを第4章か第5章あたりから先へ読み進むと、文体にはっきりとした違いがあることがわかります。より流暢になり、一貫性のない言葉遣いが減ります。語調もまた、ますます美しくなり、ヘレンのシェイクスピア好みを反映するようになります。第16章あたりから先は、ますます詩脚を含む文が増えていき、最後の二つの章は、すべて弱強五歩格の詩形になっています。最初、ヘレンはこのことを知らなかったのですが、しばらくするうちに、それらの言葉が明確なリズムに則ってやって来ていることに気づきました。レッスン99以降は、ワークブック全体が、どちらかというと散文的な指示の部分も含めて無韻詩とも呼ばれる弱強五歩格になっています。最後に、マニュアルの一部も無韻詩になっていて、後になって筆記された二つの小冊子(『精神療法』と『祈りの歌』)の一部もまた、同様です。言い換えれば、ヘレンの聞き取りが明瞭になるにつれて、語調も明瞭になり、美しくなっていったのです。

 

私が以前、最初の数週間の筆記について説明するために用いていた事例の一つは、次のようなものです。もしあなたが北米の北東部や中西部に住んでいて、休暇を取って家を留守にして水道を止めていたとします。帰宅して水道の栓を開けたら、水道管が古くなっているので、たいていはさびが出てきます。さびを出し切るまでしばらくの間は水を流さないといけません。そうすれば、水は再びきれいになります。ある意味では、ヘレンの聞き取りはそのようなものでした。ヘレンは、『奇跡講座』が彼女を通してやって来るのに先立って、一つの霊視映像を受け取っていました。その映像の中で、彼女は自分が砂浜で一艘のボートのそばにいるところを見ました。そして、そのボートを水に浮かべることが、彼女のしなければならないことでした。一人の見知らぬ人が彼女を助けにやって来ました。後になってヘレンは、その人はイエスだったとわかりました。後に彼女自身の言葉で「古ぼけた送受信装置」と描写されたものを、ボートの中に見つけたヘレンは、イエスに、「これが役に立つかもしれません」と言いました。しかしイエスは、「いや、あなたはまだそれを使う準備ができていない」と答えました。後に振り返って、ヘレンはこれを、『奇跡講座』への言及だと理解したのですが、その筆記はまだ始まっていませんでした。彼女自身が「古ぼけた送受信装置」だったというわけですが、航海の喩えを続けて言うなら、彼女の装備は、依然として海藻にからめとられていたということになります。

 

ヘレンは約3年(1965-1968 年)かけて「テキスト」を書き取りました。それから9 ヶ月後に、彼女は「ワークブック」を書き留め始め(1969 年)、「ワークブック」が完成して(1971 年)から数か月後に、「教師のためのマニュアル」がやって来て、1972 年9 月に完結しました。彼女が筆記を始めてからほぼ7年が過ぎていました。   

 

 

III. 編集作業 へ続く

 

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