『奇跡講座』の原稿の歴史
Ⅵ . 結論
言うまでもないことですが、もし人々が別のバージョンを購入したり読んだりしたとしても、私は彼らに罪悪感を感じてほしくはありません。人は、有害なことでない限り、何でも自分のしたいことをするべきです。そして、世間で噂されているような「奇跡講座の法王」などいません。ですから、あなたが『奇跡講座』に関して何をするにしても、最も重要なことは、怒りや裁き、あるいは「不当に扱われている」といった気持ちを持たずにそれをすることです。これらの反応は、常に自我のものです。あなたが何をするにせよ、その動機が自我を交えないものとなるように努めてください。そのようなやり方であれば、あなたのすることは何でも、愛に満ちたものになるでしょう。
人によっては、異なったバージョンの利点について議論したくなるかもしれませんが、本当に重要なことは、『奇跡講座』がどこから来ているか、ということだけです。それは万人の<正しい心>から来ているのであり、どんな時でも、私たちの一人一人が<正しい心>を選ぶことができます。もしあなたが、その議論に何か意味があると考え、論争に巻き込まれているとしたら、あなたは議論し、差異を見るでしょう。しかし、本当はそこには何の違いもないのです。違いは、形態(肉体)の中には疑いようもなく存在していますが、内容(心)の中には決して存在しません。ですから、異なった立場を代表する人々の間には、何も重要な違いはあり得ません。差異を見て、それを何か重大なものにするときは、自我が私たちを捕まえたときです。というのは、そのとき私たちは、分離という「小さな狂った考え」(T-27.VIII.6:2) を笑い飛ばすことを忘れているからです。
人々が論争を起こすのは、葛藤が存在する状態を必要としているからです。そして、葛藤が存在するとき、自我が招き入れられたことは確かです。<正しい心>の中には葛藤はあり得ません。なぜならば、そこでは、全ての人が同じであると知覚されるからです。どんな差異が存在しようが、それは、肉体という幻想のレベルにおいてのみです。肉体はそれぞれ異なっています。人々は様々な本を書き、様々なことを言います。しかし、もしこれらの違いを重要なものにしてしまい、戦争とまでは言わずとも、論争や葛藤の対象にするならば、どちらの声に耳を傾けているかは明らかです。
私たちの唯一の責任は、平安の声を聞くことだけであり、私たちがその声を聞くとき、論争とは、子供達が砂場で遊んでいるようなものだと認識します。しかしあなたが、彼らと一緒に砂場の中に座り込んで遊んでいるのでない限り、あなたの目の中に砂が入ることはあり得ません。もしあなたが、イエスを傍らにして、大人として立ち上がるならば、砂場の中で何が起こっていようと、あなたにとっては何の重要性もありません。つまり、世界の中で進行しているどんなことも、あなたの心の中における神の愛の経験を変化させることはできない、ということです。
『奇跡講座』の異なるバージョンが引き起こした問題にあなたが賛同するかどうかは、重要ではありません。明らかに、誰にでも何らかの立場があります。しかしそうした立場はあなたの平安に影響を与えるべきではありませんし、その問題に巻き込まれた人々をすべて同じだと見るあなたの心眼{ヴィジョン}にも影響を与えるべきではありません。これが意味していることは、このコースに関して現在起きていることは、単にもう一つの<教室>にすぎないということです。すなわち、自分の手や足や目を砂まみれにしたいのか、イエスとともに立って平安でいたいのかを見分けるもう一つの方法だということです。
イエスがいつも私たちに求めている通り、あなたが裁きの代わりに心眼{ヴィジョン}を選ぶとき、あなたにわかってくることは、全ての人が「心に戻り、もう一度選び直す」という同じ探求に携わっているということ、また全ての人がこの旅を恐ろしいと思いたくなる誘惑にかられることがあるということです。人は恐れているとき、砂場にはまり込み、まるで砂場の玩具を武器のようにして遊び始めるのです。
ここで大切なことは、人は、どんな立場であれ自分が正しいと思う立場に立つべきですが、それを大仰なものにしようとしないことです。真に正しい唯一の立場とは、私たちは皆、間違った教師を選ぶという同じ間違いを犯したが、今は選び直すことによってその訂正をすることができる、という立場です。これが、唯一の重要な事柄です。今起こっていることは、これまでとは違った選択をするためのもう一つの機会に過ぎない、ということです。つまり、分離した利害ではなく共通の利害を見るための機会です。
もしあなたが『奇跡講座』を分離と形態の世界の一部として見るならば、『奇跡講座』に関するあなたの見方はゆがめられることになります。仏陀はかつてこう述べたと言われています。「仏陀の教えとして知られているものは仏陀の教えではない」と。そして同じことをこのコースについても言うことができます。言い換えれば、『奇跡講座』は実は本ではないし、特定の一連の教義といったものですらありません。それは贖罪を象徴するものであり、あらゆる人の心の中にある分離の想念を訂正するものです。私たちがこのことを認識するとき、他の学習者や教師を裁いたり、あるいはこのコース自体や他の霊性と対比させてこのコースを裁いたりする、といったことは不可能になるでしょう。
つまり、『奇跡講座』に断片化や分離をもたらすようなどんな意味も持たせない、ということです。これが意味していることは、神聖なものとは本そのものではないし、ヘレンや、ヘレンのノートやペンや、ペンを握った指でもないと、私たちが認識するということです。神聖なのは、私たちの対等な心の中にある思考体系なのです。さもなければ、『奇跡講座』は、特別性の単なるもう一つの象徴となってしまいますし、自我が罪悪感を、裁きや分割や葛藤という形態に投影するのを正当化する手段となってしまいます。キリスト教が、憎悪や殺人すら正当化する宗教になりはてたのと同じように、このコースもそのようなものになりはてることがあり得ます。残念なことですが、『奇跡講座』の短い歴史がすでに、分離や裁きや排除という同じ精神力動のいくつかを反映しています。しかし、他にどんなことを自我から期待しようというのでしょう? 言い換えれば、『奇跡講座』は、心が心自体を訂正できるようにと、心によって、心のために書かれたのです。
もちろん、イエスからのこのコミュニケーションが正確に伝達されることは重要です。幻想の中では完璧なコミュニケーションは不可能であるとはいえ、できる限り正確に伝達されることが重要です。けれども、真のコミュニケーションは言葉ではなく、ヘレンが彼女の心の中で一つにつながった愛であり、私たち自身の中にも存在する愛である、ということを、心に留めておいてください。それは、天国の完璧な愛と一体性を反映する愛です。
ですから、何であれあなたにとって意味のある象徴を用いてかまいませんが、それがもたらす結果にこだわらずにそれを用いてください。できる限り純粋に、赦しというあなたの機能を果たしてください。そうすれば、その後で起こることはあなたの関心事ではなくなるでしょう。さもなければあなたは、形態で内容を代用するという、自我の罠に陥ってしまいます。そして、そうした代用は<特別な関係>の主要な特徴の一つです。だからこそ私は、『奇跡講座』は『奇跡講座』ではない、少なくとも本や言葉ではない、ということを言い続けているのです。
もし私たちが、『奇跡講座』の本質である愛を思い出すことができれば、私たちは、差異や論争といった自我の誘惑に捕えられることはないでしょう。そして私たちが、自分の中でその愛を清らかなものに保つことができるとき、私たちは互いに形態においては違っていても、内容においてはひとつであると認識し、形態が清らかであるように見えてもそれをさほど重要視しなくなるでしょう。そして、全ての神の子の中にある「愛という共有された内容」を思い出すことを学ぶことこそが、『奇跡講座』の要旨であり真髄なのです。
完