ケネス・ワプニック インタビュー第10回
次のステップ
IP: 自我の世界において、しっかりした土台といったものが、そもそもあり得ると思われますか?
ケネス・ワプニック(以下、KW) : わかりません。私が思うのは、最終的には、私たちはただ、自分のすることをするだけであり、それがどんな「目的に役立つ」にせよ、それはその目的に役立つ、ということだけです。いわゆる計画といったものはありません。イエスや神に計画があるというのではなく、これは私たちが果たす役割なのです。計画というものは一定期間にわたって起こるものですが、時間は幻想なのですから。
IP: 「人がこの世界の中で行う必要があることなど何もない」という前提で、お二人は、要するに、自分がしたいと思うことをしているということなのですか?
グロリア・ワプニック(以下、GW) : 私たちは二人ともまったく人前に出たがらないタイプの人間なので、もし私たちがしたいことをしていたなら、このようなことはしていなかったでしょう。私たちは、注目を浴びるのは好きではありません。私たちに使命があるというふうには、私は感じていません。でも、キリスト教を離れて歴史を学んだ後、私がいつも思っていたことは、人々はこのすべてを間違って解釈してしまった、ということです。『奇跡講座』はそれを訂正しており、キリスト教が本来提示すべきだった声明を提示している、と感じました。私はそれに生涯を捧げようと思いました。それは内面的な事柄でした。ケネスも同じように感じていると思います。つまり、もし私たちが自分で選択していたなら、私たちは自分たちだけでやっていた、ということです。彼はすでに修道士になることを選択していましたし。
KW : 私も、これを「選んだ」というわけではありません。『奇跡講座』に出会ったとき、私はただ、「これが次のステップだ」と思っただけです。
GW : 人々はそれを「導き」と呼ぶかもしれませんが、私は、それは、「自分たちの正しい心につながる」ということだと思っています。そうすると、それが、次のステップのように感じられるのです。
「これはこういうもの」
IP: あなたは、自分は『奇跡講座』が実際に述べている通りのことを教えている、とおっしゃっていますが、もしあなたが、この本から一節を読み上げて、それについて説明したら、それはあなたの解釈だということになるはずですよね?
KW : 私は、『奇跡講座』を、様々に解釈できるものとは思っていません。それは、それ自体が述べている通りのことを教えていると思います。こんなことを言うと、「私が言っていることが、このコースの教えなのだ」などと言う私は何様なのかと、思う人々もいるかもしれませんが、それは、人々が自分で決めるしかないことだと思います。
IP: しかし、あなたはそのように公言しておられますね。
KW : そうです。私は、「これが、このコースが教えていることです」と言っています。本当にそうであると自分で知っていながら、「これは、"それが教えている"と私が思っていることです」と言い続けるなら、私は正直ではないことになると思います。人々は、私のことを、「彼は全く正しい」とか、「あれは彼の意見にすぎない」とか、「いったい彼は自分のことを何様だと思っているのだ」とか、「彼は傲慢になっている」とか、いろいろなことを言うだろう、ということは、私も認識しています。でも私には、自分の知っていることしかできません。これは、ヘレンが『奇跡講座』を書き取っていたときに、彼女がイエスに対して、「私はあなたがいま言ったことには賛成できません」と言ったときと同じです。
そのような時、彼は、「申し訳ないが、これはこういうものなのだ」と言ったものです。
だからと言って、他の人々が、「私は同じ本を読みましたが、そこから、全く異なったことを理解しました」と言ってはいけないということではありません。しかし、もし私が自分の教えていることを独自の解釈だと言うなら、私は自分自身や他の人々に対して不正直であることになると思います。
IP: あなたは、『奇跡講座』の多くの文章は隠喩的であると言い、その他の文章については文字通りに受け取るべきだと言っています。ある箇所が隠喩なのか文字通りの意味なのか、読者はどのようにしてわかるのでしょうか? それでは混乱を招かないでしょうか? そのすべてが文字通りに受け取られるべきということはないでしょうか。
KW : 確かに、それは混乱を招きます。けれども、すべてを文字通りに受け取ることはできません。そこには矛盾があるからです。『奇跡講座』の中で、イエス自身が、彼は象徴を用いて話しており、真理は象徴を超えている、と言っています。また彼は、父と子と聖霊をあたかもそれらが分離しているかのように語っています。でも、それらは本当は分離してはいるわけではなく、彼がそのように語っている理由は、私たちが自分たちが分離していると思っているからだ、と言っています。神が涙を流したり、神に手や腕や口や声などがある、といった記述は、文字通りのことを意味しているはずがありません。あなたは「どれが象徴だと、誰が決めるのか?」と尋ねるかもしれません。しかし、「『奇跡講座』には象徴として捉えるべき部分は存在しない」と反論することは、誰にもできないはずです。さもなければ、この本は馬鹿げたものということになります。『祈りの歌』は明らかに、象徴と実在するものとをごちゃ混ぜにしている人々のために、それを訂正するものとして口述されたのです。
それから、「どの部分がどちらに属するかは、どのようにしてわかるのか」ということですか? 私の経験則は、「二元論的な枠組みについて話しているところはすべて、象徴であるはずだ」というものです。なぜならば、真理は二元性を超えているからです。二元性について話している箇所、例えば、聖霊があなたに話しかける声であるとか、神には計画があるなど、そういったところは、象徴でないはずがありません。二元論的だからです。
『奇跡講座』は、真理はすべての象徴を超えていると、はっきりと述べています。そのことは私にとっては極めて明白です。私は、そのことに解釈の余地があるとは思いません。
IP: イエスは、聖霊があなたの求めるどんな形においても助けてくれるだろうというようなことを述べていますが、もし本当にその通りのことを意味していないのであれば、彼はなぜそのようなことを言っているのだと思いますか?
KW : 彼自身がその問いに答えていると思います。だからこそ私たちは、『奇跡講座』全体と、それに加えて、『祈りの歌』を読まなければならないのです。彼は、聖霊は「どんな具体的な問題」(S-1.I.2:1)にも答えると述べ、そしてまた、「あなたはまた、一つの問題と一つの答えがあるだけだとも、教えられてきた」(S-1.I.2:2)とも述べています。それから彼は、「祈りにおいては、これは矛盾していない」(S-1.I.2:3)と述べています。