ケネス・ワプニック インタビュー第11回
レベルの混同
KW: それ(第10回を参照)に関しては、「いくつもの段階がある」という概念を理解する必要があるのです。『奇跡講座』はいくつものレベルで書かれているということを、理解しなければなりません。
誰でも、「今、自分が居る」と信じているレベルで、『奇跡講座』と出会うのです。『祈りの歌』に、階梯という概念が出てきます。いちばん下の段から始めて、最上段へと登っていくという概念です。この概念がわかれば、『奇跡講座』の中に出てくる言葉遣いや言い方などが、なぜそうなっているのかがわかり始めます。
このことは、ヘレンとビルと私にとっては、きわめて明らかなことでした。私たちは、それに疑問を持ったことなどありませんでした。これらが象徴であるということは明白だったからです。(そして、心理学者である私たちには、それらを象徴として扱うことは容易なことでした。)人々が、言葉やフレーズを文字通りに受け取ったり、それらを文脈から切り離したりし始めたことは、私たちにとっては大きな驚きでした。
私がレベル1とレベル2について説明し始めたのはその頃です。
IP: 『奇跡講座』は複数のレベルについて語っているのですか? 私はそれを見たことはありませんが。
KW: ちゃんと読めば、そのように語っています。『奇跡講座』の最も近くにいた3人がみな心理学博士であり、基本的にフロイト派だったというのは偶然ではありません。心理学者たちは、象徴や、複数のレベルがあるといったことや、人々は自分で言っている通りのことを意味していないということなどに対処することには、慣れきっています。
それは、「人々が言っていることには意味がない」ということではありません。それは単に象徴だということです。
GW: たとえば、聖霊が自分と共にいてくれるだろうというのは、とても慰めになる考えだと、私は思います。自我は大急ぎで割り込んできて、「気をつけろ! 次のステップは、身の破滅だ」などと言ったりするのですから、自分と共にいてくれる存在がいる、と安心させてもらうことは、役に立ちます。
IP: 階梯の1段目は、人々が「聖霊は自分の味方だ」と理解する、ということでしたね。
GW: その通りです。自分の中に、自分が頼みにすることのできる助けがある、ということを理解することは、このプロセスにおいてとても重要です。『奇跡講座』は、ゆくゆくは、「あなたの疑いを終わらせる体験が訪れる」 (W-pI.158.4:4)と言っています。あなたは、何が真理で何が幻想か、また、何が実在していて何が実在しないのかを理解するようになります。そうすると、その他のすべての疑問は消えてなくなります。
KW: 『奇跡講座』が述べていることを本当に理解したときには、先ほど話題になったような、その他の論点もすべて辻褄が合うようになるのです。それには時間がかかります。全体を理解したとき、それぞれの部分がどのように全体の中に収まるかがわかり、全体が違って見えます。全体を理解していないと、人々は個々の部分を取り出し、それについて、「これはかくかくしかじかの意味だ」と言うでしょう。それは、「群盲象をなでる」という逸話と似ています。象は鼻でしょうか? 尻尾でしょうか? 多くの人々は、断片を一つ取り上げて、「これは、こういうことを言っています。そういう意味ではないと私に告げるあなたは、いったい何様ですか?」と言うわけです。
IP: 人々が犯す間違いのうち、最も大きいものは何だと思いますか?
KW: そもそも『奇跡講座』を手に取ることです!(笑) そのご質問の答えは、たぶん、私たちが今述べてきたようなことだと思います。「象徴や隠喩というものを理解しない」ということが、最も大きな間違いです。そうした思い違いにより、人々は、聖霊が駐車スペースを用意してくれると考えたり、すべては幻想なのだからここで何をするかは重要ではない、と考えたりするようになります。それが、他のすべての問題の「生みの親」です。
「階梯」の諸段階
IP: あなたがよく使う言葉で「能天気な極楽トンボ (blissninny) 」というのがありますが、それは、『奇跡講座』的には、「自我や世界の醜さを否認している人々」と定義できると思います。でも、私たちが聖霊の心眼{ヴィジョン}で物事を見始めるとき、それに伴って、外的世界についての私たちの体験は変化するのではないでしょうか? あなたが「極楽トンボ」と呼んでいる人たちがそうしたことを体験しているのではないということが、どうしてわかるでしょう? 彼らにとっては、世界は本当に素晴らしいところなのかもしれないのではないでしょうか。
KW: もちろん、そういうこともありえます。しかし、そうしたことについて、客観的にお答えするすべはありません。ただし、長年、セラピストをしている者として言わせていただくなら、人々が現状否認に陥っているときには、直感的に見抜けるようになってくるものなのです。例えば、何年も前のことですが、私の患者の一人が自分の休暇について私に話していたときに、こう言いました。「火曜日には〇〇をして、木曜日には父が亡くなって、金曜日には〇〇をしました・・。」それを聞いていた私は、「ちょっと待ってください! 今なんとおっしゃいましたか?」と言わずにはいられませんでした。さて、ここで、私は、「その人は実相世界にいて、彼のお父さんの死は、べつにどうということもなかったのだ」と捉えることもできたわけですが、もう一つの可能性として、そこには私が見極めるべき何かがありそうに思えました。これは極端な例ですが、非常に多くの場合、「極楽トンボたち」が話しているときには、彼らが取り組むべきなのに取り組んでいない何かがあるということを、誰もが、ほぼ感じとることができます。しかし私が客観的にそれを知るということは、できません。
IP: 階梯を、少し上の段まで上り始めた人たちも、何人かはいるはずだと思いますが。
KW: もちろん、そう願いたいものです。
IP: しかしあなたは、そういった人たちに向けて発言しているわけではないのですよね?
KW: その通りです。そこまで進歩した人ならば、『奇跡講座』を必要としないでしょうし、そしてもちろん、そうした人は<教室>の中にいる必要も、この本を読む必要もありません。『奇跡講座』は、まだ自分の自我の中にいる人々のためのものです。……ほら、そこがあなたの盲点でしたね? (笑)
IP: 同様に、「世界の中では私たちには理解できない」とあなたがおっしゃっている、美しく詩的な文章のことですが、あなたは、それらの目的は何であると考えておられますか? それらは、いわば「ロバの目の前にぶら下げられたニンジン」のようなものであり、私たちを励まして前に進ませるためのもの、または、私たちに目標とする何かを与えるためのものと言っていいでしょうか?
KW: 目的についての疑問に答えるのは、常に難しいことだと思います。すでにそのようになっているものについて、あとになってから私たちは、なぜそうなっているのか、その理由を理解しようとしているからです。私は、その理由の一つは、ヘレンが詩が大好きだったからだと思っています。
ヘレンは、あるレベルでは、これは彼女へのイエスの贈り物だと感じていました。このことについて、ヘレンは私にそんなふうに話していました。それが『奇跡講座』に、一定の品格を与えていることは確かです。それは美しいですし、それと同時に、実用的なレベルでは、人々がそれを非常に丁寧に読み、注意を払うことを促します。それを速読することはできません。『奇跡講座』の気高く美しい内容を、同じく非常に気高く美しい形態に統合させるという、素晴らしいやり方なのです。
IP: 『奇跡講座』はそれ自体のことを、何千もの道の一つに過ぎないと言っています。それでいて、「自我の宗教」について語っていて、それらの他の道の大半が、この「自我の宗教」ということになります。あなたは、これらの他の道がうまくいくと思われますか? もしそれらが裁きや罪悪感を助長するというのなら、そのようにして神に到達することはできるのでしょうか?
KW: できます。『奇跡講座』の中では、イエスは『奇跡講座』の観点から話している、ということを理解しなければなりません。その視点からは、ほとんどすべての他の霊的な道が自我からのものですし、もちろん西洋の宗教もそうです。しかし、もし『奇跡講座』が、私たちを故郷へと導く唯一の霊的な道ではないということなのであれば、他の見解がいくつもあるということになります。別の見解を信じている人から見れば、『奇跡講座』は違ったものに見えることになります。例えば、悪魔の仕業だとか、自我による作品だとか、ヘレンの無意識から生じたものだなどと見なされることも、あるかもしれません。
(*最後の段落についての訳注: 例えば、罪を実在するものと見なして、それを償うことによって救われると説く道もあり、そうした道を極めることにより神に到達できるという可能性を、『奇跡講座』は否定しないが、『奇跡講座』にはそれ自体の一貫性があるので、他の教えから見て受け入れ難いと見なされる場合がある、という意味。)