ケネス・ワプニック インタビュー第12回

 

 

愛の手本

 

KW: マザー・テレサのような人がいたということの意義の一つは、あるレベルでは罪悪感と裁きでいっぱいだった宗教の道を、彼女がその身から溢れ出る愛によって、明らかに超越していた、という点です。彼女はその道に完全に従っていましたが、他の人々は彼女から、愛に満ち溢れた存在を感じました。私は何度か、彼女が講演しているのを聞いたことがありますし、個人的に彼女に会ったこともあります。彼女が妊娠中絶反対の講演をしていたとき、そこに

裁きは感じられませんでした。彼女は、妊娠中絶が悪いことだという点においてはっきりした態度をとっていましたが、妊娠中絶をしたら地獄に落ちるなどということは、彼女の態度から伝わってきませんでした。

彼女は、『奇跡講座』なら「自我に基づいた信仰」と呼ぶであろうものの信者でありながらも、彼女の心の中の「内容」において全く混じりけのない愛をもって語ったので、そうした信仰の信者という「形態」を超越してしまったわけです。そうして彼女は、イエスの愛の代弁者となったのです。『奇跡講座』を学んでいる人々のうちの何人が、自我のない愛の表現の手本として、 彼女に並び得ると思いますか?

IP: 「エンデバー・アカデミー 対 ペンギン社」の、著作権を巡る訴訟(【訳注】「原稿の歴史」を参照)に関してですが、人を攻撃せずに告訴するということはできるのでしょうか?

KW: もちろんできます。そのご質問はこう言っているのと同じです。「私は『奇跡講座』を学んでいて、「肉体は幻想だ」と言っているのだから、その私が外科医になるべき理由などあるだろうか? どうして看護師になど、なれるだろうか? 私が病気になっても、医者に診てもらう必要などあるだろうか?」など。問題なのは訴訟そのものではないのです。人々が助長する裁きや憎悪や怒りや分離が、問題なのです。実際、同じ状況を、まったく逆のことを主張するために使って、「これは素晴らしい教室だ」と言うこともできるのです。つまり、形態のレベルでは明らかに自我か ら来ているものごとを通過しながらも、「どうすれば、これを怒りや裁きや咎めなしに行うことができるだろう?」というふうに考えることができるわけです。私は、それは素晴らしい機会だと思います。それは、マザー・テレサの場合と同じです。 彼女の宗教は裁きと特別性を表現していますが、彼女は、そうしたものを超越した態度でそれを生きたのです。訴訟についても何ら違いはありません。 

IP: おそらくあなたは、この訴訟を行うことは、『奇跡講座』を本来意図されたままの完全な形に保つための、愛ある行為だと思っておられるわけですよね?

KW: その通りです。誰でも世界の物事を用いなければなりません。なぜならば、そこが、私たちが「自分がいる」と信じている場所だからです。

GW: 尋ねるべき問いは、「なぜ人々は著作権を侵害しているのか?」ということです。 彼らの動機は何なのでしょう? 合法的な著作権が存在しているというのに、なぜ、

窃盗をしてまでこのようなことをしなければならないと感じるのでしょう? なぜ、この世界における自分たちのレッスンとして選んだ形態に沿って生きることができないのでしょう? 彼らは、これらの国際著作権法がある時代にこの世界に生まれてくることを選びました。だとしたら、なぜ、それらに違反し、従わないということを選ぶのでしょうか?

KW: 肝心なことは、自分のしていることを、できる限り自我なしに行う、ということです。「求道者は訴訟を起こさない」などと言うとしたら、それは、「混沌の法則の第一原理」の通り、「幻想には順位がある」と言っていることになります。それは、病気の時に、「どうせ、すべては心の中のことなのだから、医者にはかからない」と言うのと同じです。あるいは、『奇跡講座』が、「あなたが誤りを訂正するのではない」と言っているという理由で、学校の先生であるあなたの生徒が「4足す4は7です」と言うのをそのままにしておく、といったことと全く違いはありません。人々はレベルを混同しているのです。行なっていいことや、行なってはいけないこと、というものがあるのではなく、どのように行うかによるのです。重要なのは形態ではなく、その人がそこに与える愛に満ちた内容なのです。同じ状況でも、逆のことを主張することができます。つまり、「『奇跡講座』を学ぶ愛情深い人が、訴訟に関わるべきでない理由などあるだろうか?」と言うことができます。それは素晴らしい教室となり得るからです。ただし、私が言っているのは、「それこそが、人々が訴訟に関わる理由なのだ」ということではなく、「それがたまたま今日の自分のプログラムに含まれているから、それをする」、というだけのことです。

 

精神修行

 

IP: あなたは、日常生活の中で、『奇跡講座』の原理をどのように適用していますか?

KW: 私は、自分が教えているとおりに、そして『奇跡講座』が言っているとおりに、それを適用しています。一日を、できる限り自我に振り回されずに生きるようつとめています。そして、私は日々、多くの人々との関わりがあるので、たくさんの機会があります。

IP: 何か特定の形の精神修行のようなものを、習慣としておられますか? あなたが儀式は奨励しないと教えていることは承知していますが、瞑想やそれに似たようなことは、何かしていますか?

KW:規則正しく、決まった形で、儀式的に何かをするということは、していません。普段、毎朝、散歩をしますが、これは40年以上もやっていることです。瞑想やその他の精神修養の方法に価値はありますが、それらは諸刃の剣だと思っています。そうしたことに依存しすぎることになりかねません。自分を、より平安にさせてくれて、精神の集中に役立つものなら、どんなものでも有益です。 

危険なのは、それが<特別な関係>へと変わることがあり得るということだけです。私は、以前は瞑想をしていましたが、今はしていません。

IP: イスラエルの山頂にいらした頃の話ですね!

KW: その通りです! 私は静かでいることがよくありますが、決まったやり方を使っているわけではありません。

IP: お二人とも、ありがとうございました。

  (完)