ケネス・ワプニック インタビュー第6回

 

 

出  版

 

IP: 『奇跡講座』の出版について話してください。資金源などについても。

KW: 時間がたつにつれて、私は、ヘレンと一緒にやっていた『奇跡講座』の編集作業を、本当に急がなければならないと感じるようになりました。ヘレンはぐずぐずしていたからです。

編集作業が彼女をとても不安にさせていたのです。私たちはゆうに1年以上の時間をかけたのですが、それは6ヶ月で仕上げられたはずのものでした。私はそれを早く仕上げようとして彼女を急き立ててばかりいました。

 1975年の初め頃に、ようやく私たちは編集作業を終えましたが、そのあと、タイプしなおして、校正しなければなりませんでした。校正の方はあまりうまくいきませんでした。そんなわけで、いくつものミスが残りました。

 

IP: 誰が校正をしたのですか?

KW: ビルと私ですが、2人で一緒に作業をしたわけではありません。ヘレンは、もし私たちがその作業をするのなら、正しいやり方で行わなければいけないと言ったのですが、ビルはそれを望まなかったので、私たちは一緒に校正作業をしませんでした。でも本来は、そうすべきだったのです。とにかく1975年の春までには、校正が終わり、タイプされました。どうしてその時までに編集が終わったのか、私たちはわかっていなかったのですが、その直後に、ジュディス・スカッチ(『奇跡講座』を出版した人)が現れたのです。それもまた、不思議な成り行きでした。 

 1975年の夏には、私たちは西海岸に出かけました。それが、言わば、『奇跡講座』の「一般公開」となりました。ヘレンとビルが『奇跡講座』について公の場で話したのは、そのときが初めてでした。彼らにとっては、自宅から3000マイルも離れた場所だったので、公の場でもなんとか話すことができたわけです!

IP: 私は、ヘレンの存命中は『奇跡講座』とのつながりでヘレンの名前が出されることはなかったのかと思っていました。

KW: 印刷物には記されなかったのですが、彼女は話すことはしました。  

私たちの講演会を、私は冗談で「寄席演芸」と呼んでいました。まずヘレンが自分の体験について話し、それからビルが話しました。二人ともこの「不思議な声」について話したわけですが、その後で、その「演芸会」における私の役割は、皆の前に出て行き。「ところで、みなさんには、その声というのはイエスであることをご承知ください」と告げることでした。ヘレンもビルも「イエス」という言葉を口にすることができなかったので、それは私の役割だったのです!

IP: 罵声を浴びる役が、あなたに押し付けられたというわけですね!(笑)

KW: その通りです。(笑)

西海岸を初めて訪問したこのとき、ジュディの友人の一人が、『奇跡講座』の編集済みの原稿のコピーを300部作りました。そして私たちはその著作権を取得し、配布しました。それ以前は、ヘレンは誰にも原稿を渡したことはなく、それを自分のものとして大切に守ろうとしていました。 

 

 一般公開 

 

KW: ジュディがニューヨークで開催されていた超心理学会議に出席していて、ビルもそれに参加したことがきっかけでした。彼は本当はあまり行きたくなかったのですが、なぜか行くべきだと思ったのです。そうしてビルとジュディが出会いました。ジュディは、癒しと心霊現象に関する研究に資金を提供することに関心がありました。ビルはそれに興味を持ったので、それについて話し合えるようにと、彼女を医療センター(ヘレンとビルの職場)に招いたのです。ジュディは、ヘレンとビルと一緒に昼食をとり、それから、私のいたオフィスへやってきました。私たちがジュディに『奇跡講座』を見せたのは、その時でした。そして、それが書き取られた経緯についてヘレンが話したところ、ジュディもひどく驚いていましたが、とにかく、その原稿を家に持ち帰りました。その後、私たちは皆、親しくなり、ジュディのアパートで、週に1、2回、集まるようになりました。

 1975年の夏には、私たちは西海岸に出かけました。それが、言わば、『奇跡講座』の「一般公開」となりました。ヘレンとビルが『奇跡講座』について公の場で話したのは、そのときが初めてでした。彼らにとっては、自宅から3000マイルも離れた場所だったので、公の場でもなんとか話すことができたわけです!

 

IP: 私は、ヘレンの存命中は『奇跡講座』とのつながりでヘレンの名前が出されることはなかったのかと思っていました。

KW: 印刷物には記されなかったのですが、彼女は話すことはしました。

私たちの講演会を、私は冗談で「寄席演芸」と呼んでいました。まずヘレンが自分の体験について話し、それからビルが話しました。二人ともこの「不思議な声」について話したわけですが、その後で、その「演芸会」における私の役割は、皆の前に出て行き。「ところで、みなさんには、その声というのはイエスであることをご承知ください」と告げることでした。ヘレンもビルも「イエス」という言葉を口にすることができなかったので、それは私の役割だったのです!

IP: 罵声を浴びる役が、あなたに押し付けられたというわけですね!(笑)

KW: その通りです。

西海岸を初めて訪問したこのとき、ジュディの友人の一人が、『奇跡講座』の編集済みの原稿のコピーを300部作りました。そして私たちはその著作権を取得し、配布しました。それ以前は、ヘレンは誰にも原稿を渡したことはなく、それを自分のものとして大切に守ろうとしていました。 

 その頃から私たちは、『奇跡講座』を出版する必要性について話し合うようになり、いくつかの大手の出版社にも声をかけました。その内の1社はたしか契約書まで用意してくれたと思います。でも、これぞと感じられるものがありませんでした。私たちがこのことについて尋ねたときはいつも、答えは「いや、そうするべきではない」というものでした。最終的には、ヘレンは、私たちで出版するべきだという答えを聞きました。  

 ジュディと、当時の夫ボブ・スカッチは、「超感覚研究財団」という財団を所有していました。それで、私たちはその名前を「内なる平安のための財団」に変更しました。出版のための資金は無かったのですが、その後間もなく、ジュディは、メキシコ在住のリード・エリクソンという人から電話をもらいました。彼はこう言ったのです。「私は『奇跡講座』のことを聞きました。それは世界で最も重要なことだと私には思えるので、出版の費用は私が支払いましょう」と。要するに、彼は金額欄が空白の小切手を切ってくれたようなものでした。彼は、造船業か何か、船に関連する事業で財を築いた人でした。

 

IP: 印刷部数はどのくらいだったのですか?

KW: 5000部です。私たちは、印刷機から校正刷りが刷り上がってくるそばから、それらを訂正していきました! 結果は悲惨でした。間違いがたくさんありました。しかし、後の祭りでした。これは1976年のことです。

IP: そして、それが始まりだったのですね?

KW: そうです。これらは1年も経たないうちに売り切れました。私たちは増刷し、その売り上げがまた次の増刷のための資金となりました。出版の経緯は、このようなものでした。

IP: その後のどの段階で、あなたは表に出て『奇跡講座』を教えはじめる準備ができたと感じたのですか?

KW: 私は、自分の役割は、『奇跡講座』を教える教師たちを対象に、小グループ単位で教えることのみと理解していました。私たちの誰一人として、『奇跡講座』がこんなに大きなものになるとは思ってもいませんでした。例えば、ロンドンで『奇跡講座』のニュースレター*が発行されるなどとは夢にも思わなかったわけです!

 (*訳注: これは、このインタビューをしているイアン・パトリック氏がロンドンで発行していたニュースレターへの言及です。)  

第7回へ続く